2007年6月9日、10日に、医療・福祉問題研究会と井上ゼミ生が能登の震災の聞き取り調査をしました。その中で特徴的な聞き取り結果を抜粋しました。
○被害状況
余震が来たら崩れる危険性があるので怖くて戻れない。借金だけが残った。
全壊でも家を取り壊さない人もいる。家が壊れ、道にはみ出た人は、強制的に取り壊された。
○地震発生時の状況
ブランコに乗っているようで、揺れている間、柱にしがみついていた。子どもは窓から飛び降りたが怪我はなし。気が付いたときには何が何やらさっぱり分からん状態。地震後、避難の指示は何もなかった。警報も何もなし。鍵を開けて避難所の中に皆を入れた。皆けがはなかった。電気はついていたが水道は使えなかった。TVで地震状況を確認できたがそんな余裕はなかった。
 あまりにも被害がひどいので、後に役場の人に来て見てもらって、この地区の被害のひどさが認識された。

大きな縦揺れで、何が起きたか分からなかった。瓦が落ちたり、道が離れていって怖かった。一番に家族のことが心配だった。
津波が来るといけないので、地震発生直後はラジオを持って皆で高台へ非難した。集落の防災無線は、「防災有線」で、土砂に埋もれて使用できなかった。腰を抜かした人もいたので、おぶって避難した。山の方へ避難したら崖崩れが起きていた。
 壊れた家屋や降雨による土砂崩れの危険のある箇所にビニールシートをかけたり、片付けをするため避難所へ行かず4日間残っている人もいた。
 携帯電話は地震直後は全くつながらなかった。二時間ほどしてつながる人が出てきた。つながるようになったのは夜になってから。

地震発生時、部屋で服をたたんでいて、箪笥が倒れた。旦那さんは奥の部屋にいた。奥さんが、「生きとるかー」と声をかけたら「生きとる」と旦那さんから返事があったとのこと。大したけがはなかったが、廊下のガラス戸が全部割れてしまい、奥さんはそれで手を切った。手中血だらけだったが、全然痛いとは感じなかった。旦那さんは家財道具が全部倒れてきてその中に埋まっていたが、傷一つしなかった。「けがしなかったのが不思議なくらい」と奥さんはふりかえって思ったとのこと。壊れた家を見て二人ともショックを受けてしまって、一時ボーっとしていた。特に自宅は大工だった旦那さんが自分で建てた家だったこともあり、旦那さんのショックは大きかったとのこと。ガラスで切った手は一週間ほどしたら痛くなってきた。
○現在にいたるまでの経緯
次の日に息子が来てくれて、家の中の片づけをしにいった。地震直後で混乱していたことや家の片付けに必死だったため、片づけが終わってから家の柱が傾いて、床が壊れているのに気づいた。
避難所の生活では毛布もなく、避難所にあった座布団をみんなで分け合って使った。暖房器具もなく寒かったため、みんなでくっついて寝た。毛布が届いたのが、地震があってから10日ぐらい後であり、水やガスが使えるようになったのも2週間後だった。布団が届いたのは1ヵ月後だった。時間が経つにつれて自分の家に戻る人が増えてきたので、物や場所を広く使えるようになった。
10日くらいたって初めて役場がこの被害を把握した。いつまでたっても救援物資もなにも届かず、1人あたり座布団3枚で折り重なって避難生活を送っていた。たまらず、役場に出向くと慌てて対処してくれた。それまではこの地区がこんなにも大きな被害にあっていることは知らなかった。ボランティアも来るのが遅かった。実態を知ってもらってからは、すぐに毛布(10日後)、高齢者のためのベッド(4台)、支援物資が届き始めた。2週間くらい1日おきに診察医が2人避難所にきて、血圧等計ってくれた。体調を崩す人はいなかった。料理作る人も週に2回きてくれた。
 水道、ガスは2週間後に復旧した。
○これまでに一番困ったこと、今困っていること・不便に感じていること、国・自治体に求めたいこと

仮設の電気コンロの使い方がわからない。プールの水が腐って虫が大繁殖して家に入ってくる
恐怖が頭から離れない。音が鳴るとびくびくする(地震時に鳴った大きな音が原因)
足が震えて家に入ることができない。余震が怖くて眠れない

家をどうやってなおすかということ。家をなおすお金がない。家をなおすのに1000万円位はかかる。300万じゃなおせない。資金援助などもない。2年経てば仮設住宅を出て行かなくてはならないが、2年では家はなおせない。期限を延長して欲しい。一生住み続けることができるようにして欲しい。復興住宅を町中に建てるという話しがあるが、この土地から離れたくない。家賃を払うからここ(仮設)においてくれといっている。
 避難所では食事の時間が決まっていてストレスがたまった。

 家の取り壊しの費用の請求が業者から来ている(90万程度)。どれくらい補助してくれるのかが複雑でわからない。何回も役所に行っている。「ただでもあたると思ったら大間違いだった」。書類など手続きが多い。年寄りはしょっちゅう役所には行けない人もいる。
制度がわからないと、家を建てるにも困る。
 国ではなく、自治体にまかせないと。縦割りでは何もできない。
 仮設住宅はせまいけれど、どうしようもない。ここでは、暑いときは暑いし、寒いときは寒い。体がまいってしまう。子どものいる家も困るだろう。仮設住宅は高齢の人が多い。若い人は働いている。


○現在の健康状態
避難所では人が多くて眠れない日々が続いた。ノロウィルスやエコノミークラス症候群が流行っていた。血圧が200近くまで上がり点滴をうってきた。血圧が200以上に上がった人は他にも10人位はいた。
 仮設住宅でじっとしているのは苦痛だ。ストレスが多い。畑仕事や家を見るために家に戻るようにしている。

避難所にいたときには毎晩保健師さんが来てくれていたが、仮設に入ってからは一度しか来ていない。

孫が地震のショックで声が出せなかった。避難所でいろんな人と話をしていくうちに治った模様。

○生活の場暮らしについての将来の予定計画
2年後(仮設を出なければいけない頃)どうするかは未定。考えたくない。

子どものところには行きたくない。慣れ親しんだ人と一緒に自由に暮らしたいが、いずれ身を寄せなければならないかもしれない。

家の前の県道の道幅を広げる話が県から出ていて、皆困っている。現在、屋敷の敷地が60〜70坪ほどあるが、20坪ほどが取られるらしい。早くどうなるのか決定してくれないと家を建てようにも建てられない。この間初めて町会で集まって話を聞いた。その後、県に陳情をするから名前を書いてといわれた。どこまでその話が進んでいるのか私らも分からない。早く決着つけてもらわないと困る。皆さん同じ心境だろうと思う。いっぱい屋敷(敷地)を持っている人ならば少し取られても建てるところがあるからいいが、そんな広い敷地を持っている人は少ない。いつこの話しがまとまるのか、今はそれが不安。
○その他
一番うれしかったのが、サブちゃん(北島三郎:演歌歌手)が来てくれたこと
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