地域からの発信
ケア付き仮設住宅をめぐる今日的意義 細 岡 雄 二
◎ はじめに
1995年1月17日の朝、阪神間と淡路に発生した大震災による被害は、6,430人の死者と住宅の全壊19万3000世帯、半壊27万6〔椒)世帯、一部揖壊48万5000世帯の合計95万4000世帯が被災を受ける未曾有のものとなりました。それから3年半余り、人々の記憶から薄れ始め、マスコミの扱いも小さくなって、それも阪神間のみになろうとしています。

 被災地が求め続けた公的支援法案は、「被災者生活再建支援法」として1998年5月に成立を見たものの、対象を今後の自然災害の被災者だけとして、肝心の阪神・淡路大震災の被災者には付帯決議の支援ということで、まった〈の対象外としました。しかも、支給対象は年収500万円以下の全壊世帯で最高でも100万円までとし、生活の再建には程遠いものになって被艶者の間には失望をもたらしました。

 仮設住宅での孤独死は、1998年5月3日で211人となりました。震災復興住宅などへの転出が続き、仮設住宅は今年度の9月末で解消という方針が出される中、恒久住宅への入居待ちの人々、復興住宅にも入れず取り残された人々は、閑散としてきた仮設住宅で孤独感いっぱいの暮らしをされています。ここでの孤独死が今後とも深刻な状況として心配されるところです。

 このような状況下で私たち特別養護老人ホーム書楽苑が運営します、尼崎市の小田南ケア付き仮設住宅も今年度の9月末をもって閉鎖されることが決定しました。現在の入居者は7名、多くの思い出とこれからの高齢者の住まい方のひとつの典型を残して日々を過ごされているところです。

◎ ケア付き仮設住宅の建設
 当時被災した住民のための仮設住宅は、全体で4万8300戸建設されました。また、自宅の全半壊や介護者の死亡、けがなどから、被災高齢者の特別養護老人ホームへの緊急一時入所は、1995年1月21日から始まり最高時には2,226人(95年3月23日)に上りました。震災直後の避難所での厳しい生活は今でも忘れられない光景です。真冬の学校の体育館等の避難生活ではプライバシーもなく、特に高齢者・障害者には辛い生活でした。また一般仮設住宅は生活利便施設のない郊外に多くが建てられ、高齢者や障害のある方が入居していかれました。

 こうしたようすを見た書架苑の市川祀子苑長(現・あしや書架苑総施設長)は、震災後10日ほど経た1995年1月末から兵庫県や芦屋市、尼崎市にグループホーム形式の24時間ケア付き仮設住宅を提案し続けました。非常時ということもあり県と各市のすばやい対応を得て、その年の4月1日に芦屋市で56戸、5月には尼崎市で48戸が建設されました。西宮市、宝塚市に建設されたものを含めて合計191戸のグループホームケアのケア付き仮設住宅が、また神戸市を中JL、として生活援助貝派遣事業型の地域型仮設住宅が1,724戸建設されるにいたりました。


◎ 小田南ケア付き仮設住宅
 今回報告の尼崎市の小田南ケア付き仮設住宅は、比較的大規模で緑豊かな公園の中にあって、2棟24戸がつくられました。

 各戸の間取りは1部屋16rげで洋室か和室の選択ができ、1間の押入とゆったりしたトイレと洗面所がついている構造です。台所と風呂は共同で使用します。それと建物の中央部に共用の食堂兼コミュニティーホールがあります。費用は震災特例で無料ですが、食費や水光熱費は実費負担です。

 入居者は最高時22人。内訳は男9人、女14人で平均年齢が77.33歳、最高齢者は95歳でした。入居当初の身体障害者手帳所持者は7人で、皆さんがなんらかの疾患をお持ちで通院または往診を受けておられ、重度の痴呆症の方も1人おられました。

 職員体制は7人の職員(看護婦含む)と夜勤専門の学生アルバイトも配置して、日勤が平均2.5人、夜勤が2人の体制でした。

 援助の内容は、大きく分類しますと4つになります。第1には掃除、洗濯、調理援助、買物などの家事援助。第2は入浴の介助、通院介助、話し相手などの介護的援助。第3は仮設住宅後の住まい、生活上のこと、健康問題などの相談・調整援助。第4は共有部分の清掃、建物の維持管理などの管理的援助です。日常の援助活動には職員のみでなく地域住民などのボランティアによる協力・援助を得て、昼食を中心とした食事の提供も行なわれています。ボランティアは1998年1月の時点で7団体、過に2〜3回の食事提供が行なわれています。


◎ 不安でいっぱいのスタート
 事業開始直後は地震の恐怖やPTSD(心的外傷後ストレス症候群)などで精神的に不安定な状態の人が多く、また脳梗塞や心筋梗塞などで救急車を呼ぶ事態も続出しました。けれどもその後、生活援助貝による24時間の援助活動と配置された看護婦や地域の医師による医療的サービス、多くのボランティアの援助により心身ともに落ち着きを取り戻きれていきました。このケア付き仮設住宅は老人ホームなどの施設と比較してスリムな職員体制でありながら、住み慣れた町で高い質の生活を保障されることから今後の新しい住まい方として全国から注目されました。


◎ 住み続けたい暮らし方
 入居当初における住宅の見通しでは、住宅再建の予定の方が1世帯、特別養護老人ホームの待機中が3人、未定の方が15人でした。
 入居直後に行なわれたアンケート調査(16人)によりますと、住宅の変化について、従前の家屋が木造の借家15世帯で、風呂のない世帯が14世帯、共用のトイレ9世帯など家賃が安く質の良くない住まいの方が多かったこともあって、良くなったとされる方が15人となっています。

 満足度では、以前に福祉サービスを受けておられなかった方がほとんどで、日常生活にサービスを24時間受けられるようになったことへの評価が高く、不満と答えた人はありませんでした。どちらとも言えないと答えた方もおられますが、震災以前の住宅と比較して16Iげの居室の狭さに不満があるとされています。

 生活していくうえでの良い点・と言うことでのアンケートのお答えもいただきました。その第1は生活援助貝が常駐していることからくる安心感、第2は生活援助貞が親切、第3はトイレが使いやすい、第4には看護婦さんがいてくれるとなっています。そしてケア付き仮設住宅に住み続けたいですかとの問いに対しては、16人中14人が上記のような理由で住み続けたいと答えられており、グループホーム型住宅の優位性が現れています。


◎ 恒久住宅化への願い
 こうした実践を踏まえて書楽苑の社会福祉法人尼崎老人福祉会を中心に、この住宅をノーマライゼーション理念の追求からもぜひ恒久住宅として定着させていきたいという取組みを進めてきました。そのひとつが「−ケア付き仮設住宅からの提言一災害復興へ グループホーム型住宅を」(以下、「提言」)です。1996年3月にまとめられたこの「提言」は予想を上回る反響を関係方面からいただくことができ、その後の復興公営住宅の有り様に一定の影響をもたらすことができました。「提言」の骨子は次の5項目からなります。@災害公営住宅の低層部に「グループホーム型」の住宅と設備を確保すること。(彰民有地などへの特別助成制度を設け、これらの土地の有効利用も含めて「グループホーム型」住宅を建設すること。B介護を必要とする人々が急速に増加することが予想されることから、災害復興における住宅確保については、職員常駐の「グループホーム型住宅」を整備すること。C「グループホーム型住宅」と設備は、「ケア付き仮設住宅」の経験を活かし、ハード面のみならずソフト面を大切にすること。特に職員の質と量を十分に確保すること。D「グループホーム型」住宅と設備は、建設に際して計画・設計の段階から県・市の建設・福祉の両サイドとグループホーム型「ケア付き仮設住宅」の運営経験者による共同の「検討会議」を設置するなどして協議を重ねること。

 関係各方面への訴えの取り組みは、その後の第2次の「提言」を含め、繰り返し行ないました。


◎ 安心の住まいづくり
 この3年半の間での入居者の皆さんの転居等では、4人の方が心疾患などで亡くなられ、11人の方が転居されていきました。転居の内訳は、自宅を再建されたご夫婦、特養への入所5人、夫の死亡による一般仮設住宅への転居1人、震災復興公営住宅への転居3人となっています。
 転居にあったっては尼崎市の福祉事務所等との検討を重ね、ご本人を含めた見学等も行なって進めましたが、結果は決して十分と言いがたいものがありました。そのひとつは特別養護老人ホームへの入所です。1997年11月に震災特例で市外の特別養護老人ホームに引っ越されたYさんは、難聴で軽度の痴呆症があったので個室への入居が決まりました。大変喜ばれて引っ越されたYさんでしたが、数ケ月後に訪問したときには一度も散髪した気配のないポサボサの頭で、好きだったビールはおろか缶コーヒーすら飲んだことがないとのことでした。事実上2階部分に閉じ込められていたのです。Yさんの「辛抱しています」との一言に、職員は言葉もなく暗澹たる思いで帰苑してきました。

 喜楽苑は運営理念として「人権擁護」と「民主的運営」を掲げます。人間としての尊厳を保てること、プライバシーを守ること、自由な生活の保障の取組みを進めます。施設を利用者が選択することは困難なのですから、施設の援助活動は問われなければなりません。また、特別養護老人ホーム入所については、公的介護保険の実施が深刻です。残っておられる7人の方を含めて全員が年収100万円前後からそれ以下で、介護保険が導入された後の一部負担の支払い能力はありません。この人たちの今後の生活の不安は、介護保険でさらなる追い打ちをかけられようとしているのです。
 ふたつめは震災復興公営住宅へ転居された方のその後です。震災復興公営住宅には1998年3月に3人の方が移られました。2人の方はホームヘルプサービスを利用されての暮らしへと変わられたのですが、1人は転居の1カ月後に転倒、大腿骨部の骨折で入院されました。震災復興公営住宅は、尼崎市においては2,464戸建設されて転居が進みつつありますが、今後の家賃等の生活の不安や長屋づくりの仮設住宅でつくられた近隣のコミュニティーを失い、高層住宅での暮らしになっての寂しさを訴えられる方が多くなっています。なかには昼間、家から出てこられドアの前でぼんやりと過ごされている姿が見られるなどの光景もあり、復興住宅での孤独死の増加も含めて心配です。


◎ これからの住まいづくり
 =グループハウス=
 ケア付き仮設住宅の今後では、尼崎市は震災復興公営住宅のひとつ、コレクティプハウジング(協同居住型集合住宅)にケア付き仮設住宅なみの人員配置を行なって運営するとしていましたが調整がつかず、5年間を限度としたプレハブ建ての「グループハウス」を2棟20人分新設すると1998年5月に発表しました。ケア付き仮設住宅の現在の入居者7人も特別養護老人ホーム入所までの期間、この「グループハウス」に転居することとなりました。

 この「グループハウス」の規模、内容はほぼ現在のケア付き仮設住宅と同じで、職員の人員配置も1棟に4〜5人となっています。転居が決まるまでの暫定的な入居とはいえ、ケア付き仮設住宅と同等の住宅が残せたことの意義は大きなものがあります。


 =シルバーハウジング=
 阪神淡路大震災の復興公営住宅にはいくつの特徴点があります。そのひとつがシルバーハウジングです。尼崎市内では9カ所534戸建設される予定です。シルバーハウジングは、約30名に1名の割合でLSA(ライフサポートアドバイザーの略で生活援助貝のこと)が配置され、日常的な安否確認等がされるはか、ハード面では緊急通報システムが居室、風呂、トイレにあり、さらに12時間以上水を使わない場合に通報システムが作動する水センサーが取り付けられています。尼崎の場合独自に、LSAが不在の折には警備会社に連動するよう配慮もされていますが、復興住宅での高齢者の自殺が1998年5月までに4件発生しており、交流事業などで孤独死をつくらない取り組みが求められているところです。また、高齢特目という名の1DKの高齢者用住宅がこのシルバーハウジング以外に多くつくられておりますが、ここにはLSAが配置されていないにもかかわらず、入居者はシルバーハウジング以上に重度の方も多く、今後対策が求められるところです。

 =コレクティブハウジング=
 もうひとつは、コレクティブハウジングの建設です。コレタティプハウジングは各個人のプライバシーを確保した住戸を持ちつつ、団らんや食事など、お互いに支えあう協同生活の場を組み込んだ集合住宅のことです。喜楽苑がLSAを派遣しております「金楽寺ふれあい住宅」は、コレクティブハウジングの中でも高齢者専用でなく、一般世帯向け住宅の入った典型的なコレクティプハウジングで、今までにない新しい住まい方への取り組みが始まりつつあります。

◎ おわりに
 震災は、その被害の大きさに胸の潰れるような出来事を計り知れないほどもたらしました。しかし、その後の仮設住宅での暮らしや、復興住宅への取り組みは多くの教訓や新たな施策をもたらしました。震災はすぐれて高齢者・障害者問題でもありました。

 住宅問題は福祉の問題としてとらえなければなりません。高齢者・障害者が安心して暮らすことのできる住まいは、言い換えれば健常者が安心して暮らすことのできる住まいづくりにもつながります。ケア付き仮設住宅は、高齢者の新しい住まい方として多くの教訓を作りました。そして5年間の期限付きとはいえ、「グループハウス」として今後に灯を残すことができました。また、コレクティプハウジングや高齢者のためのシルバーハウジングもかつてない規模で始まりました。これらの住宅、事業を大きく広げ、この国の高齢者・障害者が安心して暮らせるよう、取り組みを進めなくてはなりません。

      ほそおか ゆうじ/
       特別養護老人ホーム喜楽苑副苑長
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