介護保険施行1年の現実と改革課題
横山 寿一

はじめに
 介護保険施行からほぼ1年が経過した。実施後のトータルな状況はなお定かではないが、全国各地で実態把撞の取り組みが進んでおり、次第にその姿が明らかになりつつある。鳴り物入りで動き出した介護保険1年の経験からみえてきたものは何か。ここでは介護保険導入にあたって掲げられたいくつかの「利点」の検証を通じて、介護保険の現実と改革課題を整理したい。

1選択の自由
 介護保険導入にあたって、その最大の根拠とされたのは利用者による選択の実現である。措置制度は行政処女なので選択の自由は実現できない、選択の自由を実現するためには介護保険を導入し契約方式へ転換する必要がある旨の説明が繰り返された。
 では介護保険実施後はどうか。たしかにサービスを提供する事業者の数は飛躍的に増大し選択の幅は拡大した。ケアブランの作成にあたっても、利用者がケアマネージャーと相談して自らサービスの種類と量を選択し事業者を選ぶスタイルに変わった。その限りでは選択の自由は実現した。しかし、実際には選択の自由は後退している。
 この評価にあたっては、選択の自由の意味をまず確認しておく必要がある。一般に選択の自由という場合は、自らの意志にもとづいて自ら利用する財・サービ女を選択することを指している。それは直凍には、多様な財・サービスの中から特定のものを選ぶことであり、しばしばその選択は好みの財・サービスを提供している事業者を選ぶことを意味する。しかし選択の自由にはもうひとつの意味がある。それは、好みの財・サービスの選択を通じて自らきめるという意味である。自己決定と呼ばれるのはこの意味である。この二つを区分する必要がある。
 このことを踏まえて社会福祉における選択の自由についてあらためて考えてみると、社会福祉施策を通じて最終的に実現されるべきは利用者のそれぞれの条件や要求にもとづいてその人が自らの生活を選択し決定できること、つまり後者の意味での選択の自由であること、そして前者はそのためのひとつの手段であることが確認できる。
 さらにもう一点確認しておく必要があるのは、財・サービスの選択と事業者の選択とは一般には不可分の関係にあるが、すべての事業者
がすべて異なる財・サービスを提供しているわけではないから、より重要なのは「どの事業者を利用するか」よりも「どのような財・サービスを利用するか」であるということである。社会福祉の場合にはとりわけこの点が重要である。
 以上の内容にそって介護保険の現実に立ち戻ってみよう。介護保険の実施によって、事業者の数は増大し事業者を選択する自由はたしか
に拡大した。では必要なサービスをそれぞれの条件や意向にそって利用できているのだろうか。答えは否である。厚生省や各自治体の利用
実態調査で明らかなように、サービスの利用は平均して限度額の3〜4割に留まっている。しかも限度額まで利用しない理由に、利用料が重
くて負担できないことや利用したいサービスがないことを挙げる人たちが少なからず存在している。この事実は、介護保険のもとでサービスを「選択」してはいるが必要なサービスが確保できていない人たちが多数存在することを示している。さらにいえば、逆に限度額だけでは足りない人たち、申請しても利用料負担を避けて利用をしない人たち、つまり利用しないという「選択」をした人たちの存在も同様のことを示している。
 これらのことは、介護保険のもとでは事業者を選ぶ自由は拡大したが、肝心の必要なサービスを選択し生活を選ぶ自由は実現されていないことを意味している。しかも重要なのは、たとえ不十分なサービスの利用であってもそれは利用者が自ら選択した結果であるとみなされて問題にされない仕組みになっていることである。措置制度のもとでも必要なサービスが十分に確保されないケースが多数存在したが、その責任は行故にあることが明確であったし、行政もたとえ自らサービスを提供しない場合でも最終的に必要なサービスの確保に責任を負うべきことを少なくとも正面から否定することはなかった。しかし介護保険のもとでは、サービスの利用・提供は当事者の閉息として「関与せず」の姿勢をとることを可能にしている。実際には選択の自由が後退していると指摘したのは以上のことを指している。1)
 選択の自由については、この点とは別に、十分な情報提供がないこと、サービス量が不足している土と、高齢者には制約が多く前提を欠いていること、実際にも介護保険以前からのつながりで利用がされているケースが多いこと、ケアマネージャー任せになっていること等の状況カチら選択の自由は絵に書いた餅だとの指摘が行われてきた。この指摘は事業者を選ぷ自由すら実質化されていない、つまり形式的な選択の自由すら実現されていないことを明らかにする上で重要な意味を持っているが、他方で先の2つの区分を欠いてしまうと選択の問題を事業者を選ぶ自由のレベルに留めてしまうことになりかねないという面があることもみておく必要がある。
 選択の自由の問題は、社会福祉を似て非なるものに変質させるか、それとも人権保障としての役割を強めるかの分岐点に位置する。後者へと向かうためには、量・ともに十分なサービスを利用者に届ける最終的な責任は行政にあることをあらためて確認し、そのことを実質化する必要がある。具体的には、事業者と利用者が直凍に相対する仕組みから、利用者の意向を最大限生かして最終的には行政が決定する仕組みに変える必要がある。

2 客観的な要介護認定
 介護保険サービスの利用にあたっては、要介護の程度・状態を正確に把握する必要があることは誰しも否定しない。介護保険導入にあたっては、訪問調査、コンピュータによる一次判定、認定審査会による二次判定という三段階方式を採用することでより客観的で正確な判定が可能であると説明されてきた。現実はどうか。
 要介護の程度を把握するにあたって、関連する項目を明らかにしたうえでその項目ごとの具体的な状況を一定の手法に基づいて総合化し、その結果を状態把撞の材料として活用することは、それ自体としては有意義なことである。介護保険がともかくもこうした取組みに着
手したことは、その限りでは評価してよい。しかし実際には、客観的で正確な状態把掛こは程遠く、利用の妨げにさえなっている。
 訪問調査の項目が重い方へひとつ変わるだけで介護虔が軽くなったりその逆も起きる逆転現象、痴呆による要介護評価の不十分さ、家族や住環境を考慮しないことによる実態とのずれなど、認定・判定の不備を指摘する声は少なくなく、客観的で正確な状態把握とは言い難いことは大方の認めるところといってよい。厚生労働省も手直しの必要を認めており、現行方式の不備は明らかである。その不備が、要介護度の過少評価をもたらし必要なサービスが確保できないケースを生むなど利用上の制約ももたらしている。
 こうした現行方式の不備が一次判定ソフトの不備によってもたらされていることは、繰り返し指摘されてきた。その指摘に異論はないが、一次判定ソフトだけが問題ではないこともみておく必要がある。そもそも認定が実態とのずれを生んでいる最大の要因は、調査と認定が分離され本人を実際に見ないでデータだけで認定・判定が下されていることにある。訪問調査の項目が見直され、一次判定ソフトが改善されたとしても、調査と認定が分離している限りは実態とのずれを克服できない。なぜなら、二つが分離しているかぎり情報のやり取りは間凍的になり、その内容も限定されたものにならざるをえないからである。したがって、調査と認定を一体化した新たな方式への転換が、求められる
 認定のあり方をめぐるもうひとつの重要な問題は訪問調査が民間に委託され、しかも同じ事業者がケアプランの作成を担当することから
生じる歪みである。要介護度によって限度額が決まりサービス利用量がそれに連動する仕組みのもとで民間事業者への委託が行われれば、どのようなリスクが生じるかは自ずと明らかである。これは実際に間親が起こらなければよしとするような事柄ではなく、訪問調査とケアブランの基本的な性格に照らして正すべき閉息である。訪問調査・介護認定・ケアブランは、いうまでもなく介護の必要度を具体的に把撞しそれにふさわしいサービスの利用を決定するいわば制度の根幹をなす事業であり、しかも客観性、正確さそして公平性が厳しく求められる事業である。なぜならこれらは本来的には行政決定の事柄に属するからである。したがって、この事業の民間委託はサービス提供の委託とは質的に異なる。率直に言えば、本来ならば民間に委託すべきではない事業である。公的な制度として介護保険を運営しつづけるのであれば、民間委託は廃止すべきである。
廃止すべきである。

3 負担の公平
 次に負担の間規をみよう。介護保険は介護の社会化をすすめその費用を社会全体で公平に担うために必要な制度であると説明されてきた。保険方式をとるのは給付と負担の関係が明確で国民の理解を得やすいためとも説明されてきた。保険方式の是非は別として、保険である
以上は保険料負担は避けられないが、それは社会保険としての性格にふさわしい内容でなければならない。公平であることはそのひとつである。保険方式であれば自動的に負担の公平性が確保されるわけではない。では介護保険の実態はどうか。
 この問題を検証するにあたっては、負担の公平について整理しておく必要がある。周知のように、公平をめぐっては大きく二つの立場に分かれる。すなわち、受益に応じて負担することを公平とする立場と、負担能力に応じて負担とすることを公平とみる立場である。実質的な平等の実現をめざす人権保障に適合的な立場は、いうまでもなく後者である。したがって、所得の再分配を通じて等しく尊厳ある生活を保障することを目的とする社会福祉に適合的な立場も、やはり後者である。前者の考え方は、所得の平等が実現されている場合にはじめて意味をもつ。
 以上のことをもとに、介護保険の負担について検討してみよう。まず、保険料あるが、一応負担能力に応じて負担する考え方に立って5段階に区分されている。しかし、基準額が住民税本人非課税者で、その下の区分が住民税世帯非課税者、最も低い区分が老齢福祉年金受給者で住民税世帯非課税およげ生活保護の被保護者である。なるほど負担能力の違いは考慮されているものの税負担を免除されている人を含めてすべて対象としたうえで区分であるために、「負担能力に応じて負担する」ことの本来の趣旨のひとつ、つまり負担能力のない人には負担を求めないという趣旨に反する仕組みになっている。しかも、低所得を理由にした減額・免除を制度的には認めていないため、事後的に問題を是正する道も絶たれている。したがって、保険料は公平な角担とは断じて言えない。そのうえ一般的に負担能力の高い第2号被保険者より負担能力の劣る1号被保険者の方が負担額は大きく、しかも市町村特別給付(上乗せ・横出し)の費用は第1号被保険者の保険料で賄う仕組みであるため、不公平さが増幅されている。次に利用料はどうか。利用料は負担能力を全く顧みない定率負担になっており、不公平さは明瞭である。しかも保険料と同様に低所得を理由とした減額免除を認めておらず、問題は放置されたままである。
 負担の不公平さの問題は負担能力がない層低い層に集中的に現れる。保険料は、多くは年金からの天引きでしかも現在のところは経過措置により満額徴収が為されていないため間選は潜在化しているが、それでも普通徴収対象者の滞納といったかたちで現われている。滞納はやがて制裁措置を招き事態を深刻化させずにはおかない。
 すでに問題が表面化しているのは利用料である。経過措置による負担軽減があるものの極めて限定的であるため間親は広い層に及んでい
る。その現われ方は様々だが、最も重要なのは負担を減少させるサービス利用の抑制・自粛である。利用料負担の矛盾がサービス利用まで及び、負担能力がない人や低い人たちが介護保険制度から半ば排除されているところに事態の深刻さがある。
 そうしたなかで自治体独自の保険料・利用料の減免が広がりつつある。厚生省は制度を損なうものとして善処をもとめたが、自治体は反発しその後も広がり続けている。3)この動きをさらに強め、自治体のレベルで「減免が当り前」,の状況を作り出し介護保険法本体の変更を実現すること、このことが当面の課観である。その際、高い保険料と利用料をもたらしている直接の要因である国庫負担率の引き下げを同時に問題にしその引き上げを求めること、その点で自治体と住民および自治体相互の共同を強めることが重視される必要がある。

4 競争によるサービスの質の向上
 介護保険制度のもとで提供されるサービスの質についても検証されなければならない。介護保険の制度化にあたって、サービスの質については以下のような議論が展開された。これまで民間事業者は高い利用料で採算をとらなければならず、公費で割引して低料金で提供する公的部門のサービスと競争条件が同一ではなかったが、保険制度によって事業者間の料金(価格)は均一化されるため料金(価格)をめぐる競争はなくなり、残るはサービスの質をめぐる競争だけになる。多様な事業者の参入によって競争が活発になればサービスの質は自ずと高まってくる。したがって厳しい事前規制は必要ではなく事後的なチェックがあればよい。では現実はどうか。
 多数の事業者の参入で、たしかに競争は活発になった。しかも介護報酬という公定価格の設定によって事業者間での料金の差はなくなったため、同じレベルで利用者による選択が行なわれるようになった。その限りでは競争条件も同一化きれた。だからといって競争がサービスの質の向上へと向かうようになったかといえば、実際にはそうではない。公定価格の設定は、たしかに価格競争を排除することによって
競争におけるサービスの質のウェイトを全体として高めるが、コストをめぐる競争まで排除するわけではない。それどころかかえって激化させる。というのは啓一量のサービス提供に同一の収入が書こ払われる仕組みのもとでは、コスト下げれば下げるほど得られる利益が増大するからである。こうした競争環境は、サービスの質の向上ではなく逆に低下を引き起こす04〉
 介護保険事業の実際に即してみてみよう。介護保険事業のコスト構造上の特徴は、その労働集約的な性格を反映して人件費が圧倒的な比率を占めることである。訪問介護事業ではその比率は8割にものぼる。したがってコスト削減はなによりも人件費の削減へと向かわざるを得ない。実際にもそのように事態は進行した。具体的には常勤蛾月を擾力減らし、非常勤・パートへ置きかえる、登録ヘルパーを最大限活用する、事業指定の際に義務づけられる人的配置基準ぎりぎりの水準まで人員を減らす、賃金・労働条件を引き下げるなどの方策がとられた。人的配置の面で相対的に高い水準を維持してきた公的・準公的部門でも、民間水準並に引き下げる動きが広がった。訪問介護事業では、人員配置基準が常勤をサービス提供責任者のみとし訪問介護月は「常勤換算」での人員で構わないとしたことから、常勤はサービス提供責任者にまわり実際のサービスは大部分が登録ヘルパーに委ねられる体制が一般化した。
 こうした動きは、人が人と直接に向き合い利用・提供する対人サービスとしての介護サービスに様々な間遁を持ち込み、介護保険の仕組みからくる制約と相僕って、サービスの質に深刻な影響を及ほしている。とりわけ訪問介護事業においてその影響が著しい。必要なことだけ機械的にこなして利用者とのコミュニケーションが疎かになっているケース、短時間ヘルパーばかりのために1回ごとに人が変わり利用者が疲れてしまったケース、担当する対象者の数が増えたため疲労がたまりハラハラしながら仕事をこなしているケース、さらには介護報酬の安い家事援助は断る事業者、採算がとれずに事業所を閉鎖したため変更容疑なくされた人たち等など。5)たしかに事業者のなかには経験豊かな人材を配置し、利用者と話し合いながらきめの細かなサービスをめざして奮闘しているところもあるが、競争は事業者へ生き残りをかけた厳しいコスト競争へと駆りたて、利用者本位の事業をますます困難にしているのが現状である。
 サービスの質の向上を事業者間の競争に委ねるわけにいかないことは、この1年の経験から明らかである。何よりも実施が求められるのは、サービスを担う人たちの量的、質的なレベルの引き上げ、具体的には人員配置基準の抜本的な見直し(資格を有する常勤職員の配置の義務化と人員基準の引き上げ)とそれを可能にする介護報酬の引き上げである。ただし後者の点は、現行制度のままでは利用料の引き上げを招来するので、利用料の見直し(当面は応能負担化、将来的には鹿止)とワンセットで取り組む必要がある。そのうえで、事業者の指定にあたっては公的なサービスを担うにふさわしい高い倫理性と社会的責任を求める新たな基準を設け、厳しい審査を行なうことが求められる。

5 ケアマネジメントによる利用者本位のサービス
 利用者本位のサービスの提供・利用を実現するものとして、介護保険の仕組みのなかでもとくに重要な位置づけが与えられたのがケアマネジメントである。そのための専門職として新たにケアマネージャーを設け、サービスの利用にあたっては利用者がケアマネージャーと相談しながらケアブランを作成することを基本とする仕組みを作り上げた。この仕組みによって利用者は自らの状況に合わせてサービスを自由に選択して自由に組み合わせ、希望どおりのサービスが利用できるようになると説明されてきた。現実はどうか。    1
 1年の経験を通じて、利用者にとってケアマネージャーがどれほど重要な存在であるかが一層明確になった。サービス利用の成否を決する存在といっても過言ではない。そのケアマネージャーに対する不満は表向きにはそれほど出て来ていない。しかし、利用者の希望どおりの利用を専門的に支えるケアマネージャーという本来の位置づけや役割はそのとおりに実現されているとはいえないのが実態である。
 多くの利用者を担当し他の仕事との兼務の場合も少なくないなかで、しかも介護報酬の請求事務や頻繁に生じるプラン変更への対応等に追われるなかで、利用者の生活状況を正確に把撞し希望をゆっくり聞いたうえで、事業者やサービスの特徴・質も吟味したうえで利用者にもっともふさわしいと思われるものを選び、話し合いながらケアブランを決めていくというスタイルは事実上困難になっている。ある程度パターン化されたケアブランをもとに限度額を超えない、あるいは利用者の求める利用料負担の水準を超えないことだけに気を配り、自ら所属する事業者のサービスを優先的に組み込んで作成し利用者・家族に納得してもらうスタイルが普通になっている。利用者・家族も、「お世話になる」立場からの遠慮もあり情報も十分ではないなかでは「お任せします」という対応にならざるを得ない。サービスに関わる関係者によるケアカンフアレンスの開催や利用者への訪問によるプランのフォロー、現場からの意見を踏まえてのプランの修正などはケアマネジメントの質を高めるために不可欠だが、時間にゆとりがなく十分には行なわれていない。こうした実態は、当初目指されていたケアマネジメントの方向とはずれてきていることを示している。
 ケアマネージャー自身も悩みながら仕事をしている。あまりの忙しさによる健康障害、健康不安、家族生活へのしわ寄せ、本来の仕事とのずれ・利用者の要望に応えきれないもどかしさ・事業所の方針への簸間などによる精神的ストレスなどなど。その矛盾に苦しみあるいは重圧に耐え切れず心ならずも職を従れた人、これ以上は続けれられないと日々思いながら仕事をしている人も少なくない。6)こうした要になる貴重な人材を悩ませ疲弊させ熱意を奪う制度に未来はない。
 利用者に最もふさわしいサービスが提供される制度となるためには、利用者と専門家との建設的な関係が欠かせない。ケアマネジメントもそのための具体的な方法として介護サービスには不可欠な存在である。そのケアマネジメントが本来の役割を果たせるためには現行の体制・仕組みを抜本的に変える必要がある。具体的には、ケアマネージャーを大幅に増やして担当ケースを少なくすること、兼務はやめ可能な限り専任とすること、介護報酬を引き上げ待遇改善を図ること、行政による被保険者への相談業務・情報提供の強化、ケアマネージャーへの相談窓口の設置や社会資源に関する情報提供などを通じてケアマネージャーの負担軽減と活動支援を強めることなどが求められる。また将来的には、ケアマネージャーの事業者所属をやめ事業者から独立して活動する方式にあらためる必要がある。

6 契約による対等な関係と権利擁護
 措置制度を介護保険に転換する最大のメリットは、利用者と提供者が契約にもとづいて利用・提供する仕組みとなることから、これまでみられた「上下関係」とは違って対等な関係が築かれることにあると説明されてきた。また、そのことによってサービスの利用・提供は直接には利用者と提供者という当事者同士の問題になるので、行政は契約が円滑に行なわれるための条件づくり、問題が生じた時の解決の仕組み等を整える役割を担えばよく、そうした枠組みが存在すれば利用者の権利は擁護できるとも説明されてきた。現実はどうか。
 形式的にはサービス提供にあたって内容を双方が確認し契約書を交わす、契約内容に変更が必要になった場合にはあらためて契約をやり直すなど、利用者と提供者は契約当事者として対等な関係にある。しかし実際には、土地・家屋や金銭の売買・貸借の場合と明らかに異なり、提供者である事業者が契約内容を丁寧に説明し利用者もその内容を正確に理解し納得したうえで契約を交わすという、本来の契約関係が実質的には成立していないケースが多数存在する。事業者の説明が不十分であったり、利用者もあまり理解できないが言われるまま署名・捺印しているケース、契約書自体が交わされていないケース、契約した内容と異なった改善をして欲しい点があっても言い出せないケース、事業者に勧められるまま不本意にそれほど必要ではないサービスまで利用することなり後悔しているが断れないケースなどなど。利用者の自覚や自己斉任を問うことは簡単だが、当事者が高齢者や介護サービスなしでは生活できない家族が多数であること、契約内容自体が複雑で分かりにくいこ上、さらに利用者側には事業者との関係を損ないたくないという遠慮が働くことなどを考えれば、それだけで片付けるわけにはいかない。
 これらの間親を解決するために設けられた権利涛護の仕組みもほとんど機能していない。福祉サービス利用援助制度は、契約能力が不十分な人への援助サービスを契約にもとづいて有料で提供するという「制度の欠陥」ゆえにほとんど利用されていない。成年後見制度も、判断能カが低下したり喪失した人の権利擁護として重要な制度であるにもかかわらず、費用負担による制約でやはり利用はごく一部に留まっている。
 都道府県社会福祉協議会のもとに設置された正化委員会による利用者からの苦情受付および問題解決への斡旋も、市民からの距離が遠くほとんど利用されていない。事業者による第三者を加えた苦情処理機関の設置とその機関を通じた苦情への対応も、設置自体が遅れているうえに苦情申し立てを嫌がる事業者、利用が出来なくなることを恐れる利用者の遠慮などもあって、ほとんど機能していない。
 こうした実態は、介護保険の導入による対等な関係の実現と新たな権利擁護制度による契約方式の円滑な実施という厚生省や介護保険推進派によって措かれた図式が、必ずしも有効性を持ち得ないことを示している。つまり、介護サービスを必要としている人たちに契約当事者として、自立した振る舞いを求めることには無理があること、その人たちに問題があれば自ら申し出るよう求めたり、契約を結んで権利擁護サービスを確保することを期待する方法では、権利は擁護できないことを示している。
 では真に利用者の権利を保障するためには、どのような仕組みが求められるか。この間親を考える際には、まず真の権利保障とは何かを明確にしておく必要がある。社会福祉における権利の保障とは、端的に言えば利用者が必要とするサービスを利用者の選択に基いて提供することによって、尊厳のある生活を保障することにある。この場合の「選択」とは、「選択の自由」の項で触れたように、事業者を選ぶことではなくサービスの内容を選び自らの生活を選ぶことである。かかる意味での権利保障は、最終的には行政が責任をもつことではじめて実現できる。最終的な責任とは、仮にサービスの直接の提供者が行政以外の組織の場合でも、提供されるサービスの量と質には責任をもつという意味である。したがって、行政の責任によって必要なサービスを量・質ともに確保できる仕組みを整えること、このことが権利保障の基本であるということになる。
 介護保険の最大の問題は、こうした意味での行政責任をあいまいにし、契約方式の名によってサービスの最終的な確保を当事者の自己責任に委ねてしまい、その結果に間遭があっても行政が放置していることにある。したがって、介護保険における権利保障のためには「契約当事者としての権利」を保障するだけでは不十分で、「人権を有する国民としての権利」を保障することが基礎に据えられなければならない。その仕組みとは、誤解を恐れずに言えば、措置制度を利用者の選択権を徹底させる方向で組み替えた仕組みとでも言うことができる。したがって将来的には現行制度自体を抜本的に変えることが必要である。とはいえ、現行制度のもとでも可能な限り改善を図らなければならない。具体的には以下のことが求められる。
 事業者との契約にあたっては、ケアマネージャーによる支援を徹底させる必要な場合には行政担当者が関わる体制をとること利用者から要請があれば直接訪問して相談をうける体制、市民から直接苦情を受け付ける体制を行政として設けるとともに、苦情の申し出、不服審査など権利行使にあたっては、積極的に支援する体制をとること、自治体は介護保険以前よりもサービス量を減らした人、サービスを中止した人、利用頻が限度額を大幅に下回っている人などについて、地域の協力も得ながら実態を把握し、追加的にサービスが必要とされる場合にはそのための措置をとること、自治体は権利擁護の現行制度について市民への。周知を図るとともに、利用にあたって必要な援助を行なう体制をとることなどである。

7 介護の社会化
 最後に、介護保険が直接の課愚としてきた「介護の社会化」について検証しておきたい。介護
の社会化の到達点は、その対橿にある介護の私事化、直凍には介護が家族に依存する度合いがどの程度低下できたかによって測ることができる。また例え家族が介護を担っている場合でも、それが余儀なくされた結果ではなく、他の選択も可能だが介護者の自発的な選択として行なわれる、そのような状態が実現できている度合いが基準となる。では現在の到達点はどうか。
 結論からいえば、なお初歩的な段階に留まっていると言わざるを得ない。それは、在宅で介護保険のサービスを利用している人の大部分は依然として家族抜きでは介護が続けられない状況にあるからである。そのことは、限度額をはるかに下回る水準でしかサービスが利用できておらず、介護保険以前と比べてサービス利用の水準はそれほど高まっていないことからも明らかである。しかも未利用の人は、使いたくても使えないケース、家族中心に介護してきたこれまでのスタイルを前提に「そこまで必要ない」と自制しているケースが多数を占めており、積極的な選択の結果とは考えにくい。したがって、「余儀なくされた介護」がなお広範に存在し、介護保険を最大限活用して介護を社会の手に大胆に委ねていく選択は、なお一部に留まっているのが現状である。
 こうした日本の家族介護の現状を評価する場合、低下してきたとはいえ依然として同居家族
の比率は欧米に比べてなお高いことを踏まえる必要がある。同居家族が介護を担っている場合、介護者には「余儀なくされた介護」として→は必ずしも意識されておらず、当然の役割として、さらには「自発的な選択」としてさえ受けとめられているケースが少なくない。たしかに同居している場合は、家族が完全に介護から離れてしまうことは難しく、何らかの介護を担うことによって家族としての愛情を示し、家族としての絆を確認し合う姿が通常であるといってよい。そして、そのことを全面的に否定することができるかといえば必ずしもそうではない。
 したがって、家族同居がなお高い比率を占める日本の家族形態のもとでは、介護の社会化は、子との別居が一般的な欧米の場合とは異なったスタイルをとりうるし、そのための工夫も求められる。そうでなければ介護の社会化は難しい。では具体的にはどのような工夫が求められるか。まず何よりも、同居の場合でも家族の協力なしで在宅生活が続けられる介護サービスの水準を意識的につくりだす必要がある。つまりケアプランの基本モデルを抜本的に変える必要がある。 家族介護を前提にした現行の基本モデルが介護意識の転換を妨げていることは否めない。そしてその水準での利用が可能になるよう利用料の軽減(将来的には廃止)、提供体制を整備する必要がある。
 そのうえで、介護サービスの内容・形態についても工夫が必要である。同居の場合、家族も気持ちのうえで納得でき、家族との繋がりを求める本人も受け入れられるサービスを広げていくことがポイントになるが、その点で通所系サービスの拡充はもっと重視されてよい。量的な拡充はもちろん、働きながら利用できるような時間帯の工夫、緊急時への対応、個性を尊重したサービス内容など質的な改善も求められる。また在宅と施設の中間的な形態であるグループホーム、ケアハウス、介護つき住居などの拡充も積極的な選択肢になり得る。さらに施設についても、訪問家族の宿泊の受け入れ、家族も加わった行事の拡充、小人数単位での生活による実質的なグループホーム化などの工夫が求められる。
 いずれにしても、家族同居が高い比率を占める家族形態のもとでは、選択肢を可能な限り拡大し、本人・家族がそれぞれの生活条件と生活意識に即して利用を広げるなかで介護サービスの比重を高めていく工夫が求められている。その大前提として、介護問題は個々人の自助努力や相互扶助によってではなく社会的に解決されるべき間観であることが繰り返し確認されなければならないことは言うまでもない。

(よこやま としかず/金沢大学経済学部)
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