●特 集/構造改革と人権としての社会保障 「看護と人権」について考える |
|
---|---|
本田 信子 耳について離れない歌がある。かつては看護職として活躍されていたという90才近いKさんが念仏を唱える様に歌う、「まあ−だ、まあ−だ、わからん事がいっぱいあるからなあ−あ」。この療養病棟で過ごすKさんから見える世界は不可解な事で一杯なのか、調子の良い日は食堂の定席で始終歌っている。しかし時々「ちょっと−この人をみてあげてえくださあい」「大丈夫か?ばあちゃん手伝うか?」食堂での前や隣の人を気遣い手を差し出す。長年の看護職として培ってきたものが今も息づいている場面と出会う時、畏敬の念を覚える。 痴呆性高齢者の看護の経験から 高齢化社会を迎え痴呆性高齢者が入院患者にしめる割合は一般病棟においても急増していると言われる。病棟看護で「看護と人権」を考える時、療養病棟でのKさん、Mさんはじめ痴呆を持つ方々との出会いが思い出される。それは私自身が改めて「看護」とはを問い直し確信を得る機会でもあったからである。人権のテーマを痴呆性高齢者との閉りから患者の立場に立ち、患者の人権の守る共同の営みの視点から検討してみたい。 Mさんは85才の女性、治療のため一般病棟にいたが病状の改善は見られても不穏状態が 続く。 一年中殆ど眠らず、声が楢れるまで大声で叫び杖を振り回すなど落ち着かない。転倒の危険もあり、実際に転倒もした。転倒リスクが高いとベッド柵を取り付ける。危険な杖は一時預かる等した。病状が安定しやがて療養病棟へ移った。転病棟後も「はよこ−い」「おしっこ」「助けてくださ−い」等大声をあげる。出来るだけ思いに添うように対応を心がけた。一般病棟で預かっていた杖は本人にお返しした。この杖はMさんの身体の一部になっているものだ。振り回す事はあっても杖を持っていてもらうことで安心していただけると判断した。ベッド柵はL字バアーを取り付け車椅子を適切な位置においた。それでも転倒する事がある。Mさんが行勤しようと思うのは食事時間が近づき身辺のざわめきが感じられるとき、少しお腹が空いた時、トイレに行きたいときの様だ。一呼吸早めに声をかけ見守り、少しの手助けをする。「あんやと、あんやと、便所やってくれ」と自分の希望をきちんと伝えられる。食堂での自分の落ち着ける場所が出来、なじみの仲間が出来るにつれ穏やかになっていかれた。Mさんは口は悪いが柿御肌で気風のよさを感じさせる方だ。昔話はいつも甥を自分の子として育てた譜からだ。食べることさえままならぬ生活、商売の切り盛り、若くして亡くなった姉の子を引き取り一生懸命育てたという誇りに満ちた話だ。調子が良いことの目安は頬紅と眉の引き具合だ。太く黒く描かれる眉と両頬の紅、その漉さは老いていく事への不安や孤独に立ち向かおうと自分を奮い立たせているようにも見える。「今日は決まっているね」と声をかけると「そうか、あんやと」と実に嬉しそうだ。 問題行動はその人なりの理由があるという目で良く見て観察すれば了解できる。患者の全体像を丹念に聞き取り把握する。わかればわかるほど、間邁行動という形でしか表出できない患者の悲しさつらさがわかる。問題行動の真に身体症状が潜んでいる事があり自分のロで訴えられないだけ開港行動として現れる。 自己決定の尊重 板宮忠は「人間は自然死を迎えるまで何びとからもその生命・健康を害されることなく生存する自由をその権利としており、この権利の上に基本的人権が成り立っている」と述べている。痴呆性高齢者は基本的人権が脅かされるような状況においてはその権利を行使したり訴えたりすることが出来ない。したがって、高齢者を人生経験をつんできた先輩として尊敬し、その方の自己決定を尊重することが大切である。高齢者の気持ちを理解し、同じ土俵に上がり「説得より納得」していただく事が大切であろう。看護者自らも自分を開いていく過程で、なじみの関係になれるかが試される。 更に「老い」の一つの症状としての痴呆をもつ高齢者が安心して暮らせるための「場」「人」「地域」をどう作りあげていくか、痴呆とどう向かい合うかという視点は大切であり、それがまた誰もが安心して暮らせる社会につながるのではないか。 「患者の人権保障は戦いを通じて」 次に、戦いの到達として現状の「人権」があるという側面から考えてみたい。1973年、私たちの先輩(石川民医連)は金沢、寺井の各地で「訪問着護」を始めた。当時は訪問着護が診療報酬制度として認められていない時代であり「訪問着護」という言葉すら開き慣れなかった。家の奥に寝たきりで、何年もお風呂に入っておらず、巨大じょくそうを持つ障害者の方が最初の患者さんであったと聞く。「仕事がおわってから血圧計をもって患者さん宅によく訪問に行った」、それは患者が自宅でどの様にしておられるかとの思いからの出発であったという。その後、訪問看護を制度として認める運動に取り組み自治体交渉を重ねた。 一方、地域の「寝たきり老人実態調査」の取り組み、「寝たきり患者を守る会」の結成等に取り組んだ。1983年、県下で初めて寺井町で自治体として訪問着護の制度化をかちとった。ほどなく「訪問者護」は診療報酬制度として認められるに至った。 「老人デイケア」の取り組みの始まりも一人の患者への思いからだった。日中一人です ごす高齢者のためと考えて取りくみ始めたものである。やがてデイケア利用者の仲間作りがすすみ「会」が結成された。「気がねでストーブがつけられない」、「暖房費の助成をして欲しい」、障害があっても一人の人間として「気がねなくやりたい事をしたい」、とそんな声がよせられた。そしてつくられた患者会、家族会として自治体交渉の運動がすすんだ。やがてボランテアが集まり輪が広がる。 点から線、面へとの広がりは運動を通してのネットワークとなった。安心してくらし続けられる町作りへ、地道にかつダイナミックな展開が始まっている。 私たちの取り組みの原点は敗戦直後の混乱、生活難、貧困にあえいでいた国民の中で積極 的に健康を守る活動を展開、「どんな困難があっても常に患者や地域の人々、働く人々と共に統一と団結を守って闘う」という作風であった。「基本的人権」は絶えずそれを否定するものとの闘いなしには確立しない。たたかいを通じて「人権」として確定してきた歴史に学ばねばと思う。 看護と社会改革運動 私たちの看護はナイチンデール理論を基礎としている。ナイチンゲールの業績に見られる看護の社会的位置づけについて金井一薫著 『ケアの原形論』より一部紹介したい。 「世界の国々に先駆けて産業革命を成し逐げたイギリスでは、古い社会システムを崩壊させて発展させてきた結果、そこにかつて人類が味わったことのないような悲惨な社会の病理現象を生み出したのであった。この社会現象に立ち向かって展開された社会改革運動の中に、看護活動があり、同時に社会福祉活動があったのである」と看護が社会改革運動の中にあったとしている。ナイチンゲールは貧民を一人の尊重すべき人間として見ていくという新しい人間観を確立したことである。それは人間観の近代化を意味したと言われている。 「患者の権利」についての認識の変化は、患者の要求の変化、療養環境の変化等もあり時代と共に大きく変化、発展してきている。歴史の源流に学び、何よりも患者の「自己決定の保障」、患者の立場に立つ「自己決定の尊重」が重要であろう。 痴呆性高齢者の看護の体験を通じて、最期まで自分らしくよりよく生きたい、という愚者の要求を保障するためには、患者と共に健康回復の取り組みを進め、安心して療養できる保障を含め、その要求実現のために「闘う看護」を離してはならない。人間がより自由に、平和に、豊かに、健康に生きていくために。 (ほんだ のぶこ/ 石川勤労者医療協会寺井病院・看護師) |
|
トップページへ戻る | 目次へ戻る |