●特集/構造改革と人権としての社会保障 経済改革と人権 横山 寿一 |
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はじめに 経済は人々の生活を支え、生命の生産と再生産のための物質的な基礎を提供する役割を担っている。経済発展は、人々の生活を豊かにすることを目的としているのであって、経済発展のために人々の生活を豊かにするのではない。経済はあくまで生活の従属変数であって、その逆ではない。さらにいえば、経済の規模を拡大したり伸び率を高めるために資金や資源を振り向けるのは、そのことによって、人々の生活を妨げている不自由さを取り除き、誰・もがより人間らしい生活を送ることができるような、つまり誰もが自分の人生、自分の生活を自ら選択し決定できるような社会を築くためであって、経済を拡大すること自体に目的があるわけではない。 以上のことは、普通に考えてみればごく当たり前のことであるが、現実は必ずしもそのようには動いていない。とりわけ、現下の構造改革のもとでは、経済の構造改革が何にもまして優先され、人々の生活や生活を豊かにするための社会保障などがそのために蔑ろにされる傾向が一段と強まっている。何のための構造改革か、誰のための経済改革かを、いまこそ厳しく問う必要がある。小論では、この点を人権保障の視点から取り上げてみたい。 1、構造改革の内容と特徴 (1)構造改革の基本的なスタンス 構造改革は、用語の一般的な意味から言えば、部分的な手直しや修正ではなく、ものごとの構造それ自体を変えることであるが、現下の構造改革は、改革一般ではなく特定の方向への構造自体の転換、つまり新自由主義的改革を指している。具体的には、市場と競争を徹底して強化することを基準とした経済・社会の仕組みの見直しと転換であり、そのことによる供給サイドの強化を図るスクラップ・アンド・ビルド策である。小泉構造改革の基本方向を描いた「骨太方針」のいう「創造的破壊」も、市場と競争を通じた資源の高効率部門へのシフトも、本質はそこにある。 構造改革の基準が市場と競争の強化に置かれるのは、新自由主義が何よりも市場への無条件の信頼を基礎としていること、そして日本がいま直面している経済・社会の困難は何よりもその市場の機能が妨げられていることによるとの現状認識があるからである。この現状認識は、地球的規模で競争が展開されるグローバル経済化のもとで日本の市場は魅力を失い競争力を低下させているとの認識、およびその最大の原因は市場に対する「過剰な」規制にあるとの問題把握と結びついている。したがって、困難を解決するためのもっとも有効な処方箋は、「規制緩和」の推進に求められることになる。構造改革が規制複和を第一義課邁としているのはそのためである(拙稿「社会保障の構造改革と規制複和」戸木田嘉久・三好正巳編『規制績和と労働・生活』法律文化社、1997年)。 (2)構造改革の手法としての規制緩和 以上のことから、構造改革の具体的な手法が規制緩和を基本としていること、しかも、その規制緩和が第一義的には市場と競争を促進するための手段として位置づけられていることがわかる。では、その規制緩和は実際にはどのように具体化されているのだろうか。 第一は、参入規制の緩和・撤廃による企業参入の促進である。市場経済のもとでは、一般的には、一定の条件を満たす事業者には参入の自由が認められているが、事業の性格によっては事業者を限定している。いわゆる事前規制である。その規制を見直し、原則としてすべての分野で自由な参入が可能な環境に変える方向での具体化である。この具体化は、参入に対する規制はそれだけ市場が本来の槻能を発揮する領域を狭めているとの認識に基づいている。 第二は、事業や事業者に求められる最低基準・最低規制の緩和・撤廃である。財・サービスの水準を維持するために、それぞれの事業の性格に応じて事業者が最低限守るべき基準が定められているが、その基準を見直し、可能な限り緩和ないし撤廃していく方向での具体化である。この具体化は、最低基準・最低規制は、事業者の手足を縛り自由な活動による活力の発揮を紡げているとの認識に基づいている。 第三は、事業を行ううえでの許認可などにともなう手続き等の緩和・撤廃である。事業の開始・変更などにあたっては、事業者は届出やそのための書類提出など様々な手続きが求められるが、それらをできるだけ簡素化あるいは廃止する方向での具体化である。この具体化は、最低基準と同様に事業者に負担を課し事業者のエネルギーを削いでいるとの認識に基づいている。 規制績和は、以上のことから明らかなように、可能な限り事業者の活動領域を拡大し、自由度を高め、負担を軽減することによって、供給サイドの強化を図ることを意図した方策である。事業者に対する規制は、本来はそのことを通じて消費者・利用者の利益を守ることが目的であったが、そのことははるか後景に追いやられている(行政改革委員会『光り輝く国をめざして』行政管理研究センター、1996年、参照)。 2、経済社会の構造改革と社会保障 (1〉 経漬社会の構造改革 構造改革は市場と競争の強化を意図していることから、直接には経済の構造改革として進められる。しかし、市場は経済的な規制のみならずさまざまな社会的な規制によっても影響を受けている。つまり市場に委ねないで行政ルールに基づいて利用・提供を行うことを決めている領域、事業主体を特定し参入を事前に規制したり公定価格を定めて価格競争を排除している社会サービスなど、何らかのかたちで市場関係を排除したり制限している場合がある。また、社会制度によって企業に負担が義務付けられている場合は、間接的に制約を受けることになる。したがって、市場と競争の強化は、経済分野の改革にとどまらず社会制度全体の見直しへと向かわざるをえない。とりわけ、これまで行政が直接に関与し企業の活動を排除したり様々な規制を加えてきた社会保障、教育、農業などの分野は、市場と競争の作用を歪め麻痺させる存在としてみなされ、その作用が働くような仕組みへの転換が求められてくる。それはまた、これまでの仕組みを支えてきた財政・財源や行政関与の見直しをも求めることになる。構造改革が「6大改革」としてまとめられ、そのうちに社会保障の構造改革、財政構造改革、さらには行政改革までも対象とされているのは、かかる事情による。では社会保障には、具体的にはどのような改革が求められ、いかなる事態が進行しているか。 (2〉 社会保障の構造改革 社会保障の構造改革は、構造改革がめざす方向を社会保障の分野で具体化すること、つまり市場と競争に適合的な仕組みに作り変えることにある。具体的には、制度に市場関係を持ち込むこと、その一環として企業の参入を解禁すること、そして産業として育成することがめざされている。それは、以下のような手法によって具体化が進められている。 第一は、措置制度の廃止と契約方式への転換である。措置制度は、利用と提供を行政の直接的関与のもとで行うシステムで、利用者と提供者が直壊に相対して選択し売買するスタイルの対極にある。したがって、措置制度を残したままでは市場化は難しい。そこで、措置制度の間邁点をあれこれと指摘して転換を迫り、契約にもとづく制度に置き換える「改革」が進められてきた。高齢者福祉のなかの介護部分のサービス、障害者福祉制度、保育制度がこの動きによって措置制度から契約制度へと転換させられた(制度の仕組みは同じではなくそれぞれに異なる)。契約にもとづく制度は、基本的にはサービスの利用・提供を当事者同士の契約に委ねる方式であるから、行政が関与はするもののその内容は制度の管理運営に限定され、当事者の選択と相互の競争によって物事が決められていくことになる。その条件整備として、参入規制や最 低規制の緩和が進められてきた。 第二は、サービスの組み換えによる市場の創出・拡大である。市場や競争に適合的な仕組みに変えるとはいっても、すべてのサービスを制度から切り離すのではなく、サービス自体は基本的には制度のもとにとどめられ制度に則って利用・提供が行われる。その枠組みなしには、所得の低い人たちを多く含む社会保障の分野では利用が限定され独立した市場として機能し得ないし、何よりもサービスを必要とする所得の低い人たちを排除してしまうことになる。しかし、自由な取り引きを全く認めないままでは競争も選択も限定されてしまい、「改革」の意味がなくなってしまう。そこで、サービスを制度のもとにとどめる部分と制度から切り離して自由な取り引きに委ねる部分に区分したり、両者を組み合わせて利用することができる仕組みに変える「改革」が進められてきた。具体的には、介護保険における法定給付の利用額の上限設定と自由契約部分との一体的利用の容認(混合介護)、医療保険における特定療養費の拡大、医療保険給付と自由診療を抱き合わせて使う混合診療を容認する方向での検討、保育におけるオプション・サービスの容認などが進められてきた。 第三は、企業参入の促進のための仕組み・条件づくりである。企業参入を可能にするためには、何よりもこれまで非営利を原則としてきた社会保障のこれまでの考え方をあらため、営利・非営利を問わない考え方に転換する必要がある。そのためには、社会保障分野での事業を認めるかどうかの基準を組織の性格・目的とは別のものに変え、たとえ営利企業であっても問題はないことを示さなければならない。そのために持ち出されてきたのが、サービスの質を基準とする考え方である。提供されるサービスの質こそ問題であって、営利か非営利かは二義的な問題でしかない、というわけである。この考え方とセットになっているのが事前規制から事後チェックへの転換論である。たとえ問題が生じても事後的にチェックする体制を整備すれば事前に規制する必要はない、事前の規制は市場の機能をゆがめるだけだという論理である。これらは規制緩和を正当化する論理として繰り返し持ち出され、具体化されてきた。介護保険における3基準(人員基準・設備基準・運営基準)のみによる事業者指定方式の導入(当面は在宅サービス事業のみに適用)、保育事業への同様の方式の導入などがその実例である。 第四は、費用負担構造の転換である。競争を促すための条件のひとつは、競争に参加する主体が負担すべき社会的なコストをできるだけ軽減し、競争に強い体質を作り上げることができる条件を整備することである。その社会的コストの負担軽減は、決められた率で負担を課す保険料などの公課の軽減と、国や自治体などの公費を削減することによる税負担の軽減との二つの方法がある。これらを可能にする直接の方法は、公的な制度として扱う範囲を狭めて総費用を減らすこと、もうひとつは国民への負担へ置き換えることである。そうした方向で、従来の延長上での部分的な見直しにとどまらない、制度自体の改変をともなう抜本的な「改革」が求められてきた。具体的には、介護保険の創設による給付の上限設定、保険料負担の制度化、1割利用料の設定などによる公費負担の削減、障害者福祉の措置制度から契約にもとづく利用制度への転換による公費負担の削減、医療保険における本人負担の引き上げによる公費負担の削減 などが進められてきた。 第五は、管理運営システムの組み換えによる競争の促進である。公的な制度を残しながら市場と競争の関係を拡大する際には、制度の管理運営システム自体の見直しも重要な課題となる。当事者同士の選択や交渉・競争を排除する管理運営システムのもとでは、契約にもとづく制度への転換やサービスの組み換えが意図された効果をもつためには、それに見合った管理運営システムへの転換が求められる。介護保険は、行政の関与を要介護認定と給付管理、事業者指定に限定するシステムとすることによって市場と競争を大規模に組み入れた。障害者福祉も、基本的には介護保険と同じ枠組みをもつ支援費支給制度に変えることによって市場と競争を組み入れるシステムをもつことになる。いま焦点になっているのは医療保険の管理運営システムの見直しで、現在は排除されている保険者と医療機関との直凍交渉を認めるシステムに変えることによって市場と競争の関係を拡大しようとの動きが具体化しつつある(八代尚宏『社会的 規制の経済分析』日本経済新聞社、2000年、参照)。 3、経済改革と人権の保障 (1)構造改革の反人権的性格 構造改革は、上述したように、何よりも市場と競争の徹底に高い優先順位を置き、経済社会の仕組みをそれに従わせる方向で作り変えようとする点に最大の特徴がある。それは、市場と競争を徹底する特有の経済改革、つまり新自由主義的な経済改革を、それぞれの経済社会の諸制度がもつ独自の意義・役割に優先させる改革であると言い換えてもよい。しかし、こうした改革の思想は、英知を集めて人間らしい生活をめざしてきた人類の長年の歩みに照らしてみると、大きな過ちを含んでいることがわかる。 市場は、人々の生活を取り巻く自然的制約、空間的制約、時間的制約などの様々な制約を超えて欲求を満たし高めることを可能にし、人類が生存し生活を豊かにするうえで大きな役割を果たしてきたし、現在もそうした役割を担っている。しかし、同時に、市場は多くの弊害や否定的な影響ももたらし、けっして万能な存在ではなく限界も有していることを示してきた。とりわけ、私的所有と社会的分業を飛躍的に深化させた資本主義経済システムのもとで、生存をかけた競争へとすべての国民を駆り立て、市場において競争力のない者や購買力を持たない者を置き去りにする傾向を強め、実際にも貧困や不平等、社会的な対立が深まるなかで、社会的な規制とコントロールの必要性が認識されるようになり、次々と実行に移されてきた。そして、人々の生存 や生活、生命や健康をすべての人々が等しく保持できる仕組みを、市場の原理とは異なる原理を打ち立てることによって、つまり負担能力に応じた財・サービスの配分ではなく必要に応じて配分できる仕組みを整備してきた。そしてその仕組みは、当然にも市場を介さないで、公的な責任によっていわば非市場的なルールのもとで維持され運営されてきた。公的扶助制度、医療保険、公費医療制度、年金制度、高齢者の福祉、障害をもつ人の福祉、保育制度、失業保険、公営住宅整備などなど、今日の社会保障制度のいずれもが、それぞれに特有の歩みをたどりながらも、非市場的な原理とルールという点で共通点をもち、様々な英知を集めて整備が進められ、ともかくも人々の人権を守る役割を担ってきた(宇沢弘文『公共経済学を求めて』岩波書店、1987年、参照)。 構造改革は、以上のような歴史的な経緯や到達点を踏まえることなく、ひたすら市場のもつ機能に期待を寄せ、社会制度を市場へと引き戻すことによって歴史を逆戻りさせようとしている。そこには、人類が真の平等を実現するために市場のもつ凶暴さといかに格関してきたか、人間の尊厳を守るために社会制度の整備にどれほど多大なエネルギーを注いできたか、そうしたことを謙虚に振り返ってこれからの進路を考えようとする姿勢をまったく見出すことができない。それどころか、社会制度が抱える様々な問邁を市場の機能を制限してきた結果であるとみなし、その制限を取り除くことを唯一の解決策だと思い込んで突っ走る乱暴さと軽薄さ、そして反人権性を感じないわけにはいかない。生命や健康に直接かかわる医療・介護などの分野でさえ、事前チェックではなく事後チェックで構わないとする発想と感覚に、そのことが端的に現れている。 (2)経済改革と人権の保障 冒頭で触れたように、経済は本来は生活の従属変数であって、その逆ではない。しかし、実際には経済のために生活が犠牲にされたり脅かされている。経済再生のためだと称して社会保障の水準を切り下げたり負担を重くする構造改革は、その意味で経済と生活の関係を逆転させている。生活維持のために経済は不可欠だが、生活を犠牲にするような経済の再生策は本末転倒している。 そうした逆転が生じるのは、経済の論理が生活の論理に優先させられてきたこと、また経済と生活、経済と社会保障が両立しがたいものとして対立的に捉えられてきたことによる。したがって、経済と生活の本来的な関係を取り戻すためには、これらとは異なる発想とそれを具体化するための経済改革が欠かせない。 経済の論理が生活の論理に優先させられるのは、市場に対する社会的なコントロールが十分に行われていないことによる。資本主義経済のもとでの市場は、文字どおり資本が主体となり自ら増殖を求めて限りなく運動を続ける舞台として、利潤の極大化を求める激しい競争の場として現れる。それを放置すれば、社会全体が資本と競争の論理に従属させられることになる。したがって、経済の暴走を生み出さないためには、経済活動に社会的な枠をはめ、コントロールすることが絶対的な条件となる。経済活動に社会的な枠をはめるためには、社会全体として優先的に実現をめざすべき価値の明確化とその社会的合意が求められる。それぞれの国の憲法こそ、めざすべき価値の具体的な表現に他ならないが、それが経済活動に対するコントロールの指針として生かされるためには、より具体的なレベルでのルールづくりとその合意が必要となる。つまり、経済活動の自由をどの程度認めるのか、言い換えれば、経済活動に対する縛りをどの程度、どのような方法でかけるのか、さらにいえば経済に対する規制を憲法の論理を踏まえてどのように具体化するかが求められる。現下の動きに照らして分かりやすく言えば、規制緩和で行われている経済の論理からの経済規制と社会的規制の見直しではなく、生活の論理からこれらを見直し実行するということである。 そのうえで、生活の論理を優先することを実質的に担保するための財政支出と課税の組み換えが必要になる。ここでも、生活を経済に優先させる具体的な基準づくりが決め手になる。 経済と財政の改革を実行する際に直面するのが、もうひとつの課遺、つまり経済と生活の対立的関係の克服である。生活を優先させるとはいっても経済活動の一定水準の確保は欠かせない。問題は、その水準をいかなる経済活動によって実現するかである。その内容によって財政支出の仕方も異なる。土建型の公共事業を軸に進めるか、それとも社会保障をはじめとする生活基盤の整備を進めるかが具体的な分岐点となる。後者が選択されるためにクリアしなければならないハードルは、生活基盤の整備、具体的に言えば医療・福祉・介護などの整備がどれほど経済活動としての役割を担うことができるか、つまり経済的な効果をどの程度もたらすことができるか、それは土建型の公共事業に比べて優位性を持ちうるのかという点である。この点については、いくつかの試算が行われてある程度クリアしつつあるが、なお決定的な優位性を実証するまでには至っていない(自治体問題研究所編集部『社会保障の経済効果は公共事業より大きい』自治体研究社、1998年参照)。 しかし、ここで注意が必要なのは、けっして経済的効果の大きさだけを競う議論に陥ってはならないことである。というのは、医療・福祉・介護などの施策のなかには、経済効果が仮になくとも実行しなければならないものも存在するからである。真に問題にすべきは、いかなる質の経済をめざすか、生活を高める経済活動のかたちはいかなるものが望ましいかということである。経済効果の規模は、その内容を決する際のひとつの条件として位置づけるという問題の提出の仕方が求められる。 この点を踏まえた議論の際に決定的なカギとなるのは、マンパワーの評価と位置づけである。生活を支える社会制度は、多くの場合、対人サービスとして直接に人間によって担われている。したがって、その担い手の量と質によって水準が左右きれるという特性をもっている。制度の機能を高めようとすれば、人員を増やし専門性を高める、つまりマンパワーにかけるコストを高めなければならない。しかし、かけたコストは直接に賃金収入となるから、購買力を高めて経済活動を維持する効果をもつ。とはいえ、かかる制度の労働集約的な性格が逆にネックとなって制度の拡充が押しとどめられる、あるいは費用負担の軽減のために非正規雇用に置き換えられ質の確保が危うくされるなど、不安定な状態に置かれることになる。 ここで重要なのは、利用する人の人権の保障と担い手の人権の保障とが直接結びついているという点である。利用する人の人権を保障しようとすれば担い手の人権を保障しなければならない。しかし、そのためにはコスト増が避けられない。このジレンマを克服する唯一の方法は、マンパワーにかかるコストを個別の事業体レベルで位置づけないで、人権保障のために社会が担うべき社会的なコストとして評価し、個別事業体の経営的な判断に委ねないで公的な財政で担い社会的なコントロールの下に置くことである。そうすることによって、公的な支出による人権保障と経済的効果を両立させることができる。 今求められているのは、経済の論理で人権を担う制度やそのコストを評価する見方ではなく、逆に人権保障の側面から経済のあり方を見直す視点である(神野直彦r人間回復の経済学」岩波新書、2002年、参照)。 (よこやま としかず/金沢大学経済学部) |
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