●ハンセン病と人権 谺 雄二 |
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みなさん今日は、 ご紹介いただきましたハンセン病訴訟原告団の谺雄二です。 まず、 私自身の自己紹介的な話と、 ハンセン病とはどのような病気なのかについて、 かいつまんでお話したいと思います。 生いたち 私の父と母は埼玉県の出身です。 父は旧家といわれた家柄の出身で、 母はその小作人の娘でした。 二人は恋愛し、 明治時代の話ですから、 父方が反対したので、 父は母と手に手をとって駆け落ちし、 東京北区で生活するようになります。 この二人の10番目の子供として、 私は 1932年に生まれました。 母が42歳のときの子供でした。 当時、 「産めよ、 殖やせよ」 という軍国主義の時代で、 強い兵隊をつくるために男を多く産めという政策でした。 私には兄が5人、 姉が4人います。 私は父と母の生き方をみまして、 国策にそってではなくて、 あくまでも二人の情熱によって私が生まれたのだと確信しています。 私が生まれた直後、 母は体調をくずします。 難産で、 しかも42歳の時の出産であったので、 疲労が重なり、 産後の肥立ちが悪くなります。 病院で診察をうけたところ、 ハンセン病を発病しているといわれ、 母は強制収容されました。 そして、 私は母の病気に感染してしまいます。 このハンセン病とは感染しにくい、 慢性的な感染症だといわれています。 しかし、 治療薬のない時代には幼児感染、 つまり抵抗力のない子供には感染してしまうという状況がありました。 すぐうえの4歳の兄と、 0歳の私が感染しました。 5歳になっていた姉やそのうえの兄弟たちには抵抗力があり、 同じ環境にありながら発病しませんでした。 私は7歳のとき発病して、 母といっしょに療養所で暮らすようになり、 やがで兄も発病して療養所で暮らすようになります。 ハンセン病にたいする政策は、 非道きわまりないと申しあげていいと思いますが、 人権を無視するものでした。 ハンセン病は日本にとって恥だ、 日本の恥の病、 国辱病だと言われました。 私は強制収容され、 療養所のなかで育ちますが、 職員から 「おまえたちは日の丸のしみ」 なのだと言われました。 日の丸は、 当時、 天皇を象徴する旗として汚れてはいけない、 それにしみをつけているのがハンセン病だという言われ方をしました。 実際、 強制収容所のなかでは強制労働がありました。 また、 結婚したければ、 男性は輸精管を切断する手術、 つまり断種手術、 女性は妊娠すれば、 ただちに中絶、 堕胎しなければなりませんでした。 おまえたちには子供を生む権利もない、 育てる権利もないという国の政策でした。 さらに所長には懲戒検束権がありました。 療養所内で不満をいえば、 所長が警察権を発動し、 有無を言わせず、 私たちを監房へ押し込んでしまう、 それが所長の一存でできる、 そういう人権を無視する法律のもとに私たちは生きてきたのです。 とくに太平洋戦争がはじまり、 なんのために生きなければならないのかと思うほど、 私たちにたいする仕打ちはひどいものでした。 私たちは早く絶滅させる対象ですから、 食事や治療などはほんとうにひどいものでした。 敗戦後、 平和と民主主義、 そして基本的人権を保障した今の憲法ができます。 しかし、 「らい予防法」 という法律はこの憲法をさえぎり、 私たちはつい最近の 1996年まで 「らい予防法」 のもとにおかれ、 人間として認められない生活を送ってきたのです。 基本的人権を認めている憲法のもとで、 私たちは基本的人権を奪われ続けてきたのです。 ようやく国際的な批判をあび、 国内的にも 「らい予防法」 という法律はおかしいということで、 1996年に廃止になりました。 これ以降、 私たちは当然社会にでることができる、 みなさんから迎えられることができると思っていました。 しかし、 それはまったくかなわないものでした。 国は療養所のなかで暮らすかぎりは生活の面倒をみるが、 社会復帰については形だけの保障でしかないことに私たちは気づきました。 つまり 「らい予防法」 という私たちの人権を無視する法律が廃止されても、 ハンセン病にたいする国の隔離政策は変っていないということに気づきました。 このまま我慢しつづけることは、 私たち自身が人権を放棄することになる。 私たちを縛りあげていた法律がなくなったにもかかわらず、 自分で好きかってに辛抱しつづけることになり、 人権を放棄することになると考え、 私たちは裁判に訴えました。 1998年に熊本地方裁判所へ九州の仲間13名が提訴し、 翌年の3月、 私が先頭になって東京地裁に訴えました。 なぜ、 東京地裁なのかといいますと、 熊本では遠すぎる、 政府の足元に火をつけないとこの裁判は勝てないということから、 私は群馬県草津町の療養所にいますので普通なら前橋地裁に訴えるのですが、 九州の原告団や弁護団から、 ぜひ東京でやってくれということで、 東京地裁に私たちの仲間といっしょに提訴しました。 さらに、 岡山の仲間も地裁に提訴し、 全国的にハンセン病の訴訟が広がったのです。 そして、 ご承知のように、 2001年5月11日、 私たちを縛りあげてきた 「らい予防法」 という法律が憲法違反の法律だということが熊本地裁の判決でしめされ、 私たちは全面勝訴をかちとりました。 国も控訴断念し、 判決が確定しました。 この間、 90年にわたるハンセン病の誤った政策のもとで、 私たちがどれほどひどい犠牲をはらってきたかということです。 熊本地裁の判決で人間を回復しました。 しかし、 実際には、 私たちにたいする名誉の回復、 あるいは医療や生活のうえでの恒久対策がきちんととられなければ、 名実ともに人間を回復したことにはなりません。 私たちと厚生労働省との間にハンセン病問題対策協議会が設けられ、 そこで私たちはきちんとした保障と真相究明を求めています。 私は全国原告団協議会の会長をつとめていますので、 全国から要請をうけます。 私がこのように動きまわれるのも全国にハンセン病支援する会ができまして、 その人たちの手助けにより私は行動しています。 群馬県には約 600人が支援する会に参加しており、 その人たちの手をかりて、 今日、 私はここにたどりつくことができました。 そういう意味で新しい家族が私にはできています。 たいへん嬉しく思っています。 ハンセン病には家族会というものがないのです。 家族自身がひっそり生きていかなければならない、 まだまだ、 ハンセン病にたいする社会の偏見が厳しいのです。 家族会がない私たちに、 支援する会が新しい家族として手助けしていただいています。 ハンセン病とは ハンセン病という病気は普通の病気です。 ただ、 顔や手足に症状がでる病気です。 ハンセン病菌、 いま、 らい菌といっていますが、 このらい菌は結核菌とほぼ同じ性質の菌で、 抗酸性の桿菌です。 結核の場合は内蔵や骨に症状があらわれますが、 ハンセン病の場合は顔や手足に症状があらわれます。 みにくいということから、 「けがれ」 の象徴として、 いままで扱われてきました。 しかし、 1873年にノルウエ−のハンセン医師がこの病気を発見して、 この病気は感染しにくく、 感染しても発病しにくい、 きわめて慢性的な病気であることを明らかにしました。 にもかかわらず、 日本の政府はそういう科学的な認識にたたないで、 私たちを日本にとってあるまじき病として扱い続けてきました。 ここに、 私たちハンセン病患者にたいして、 日本におけるもっとも人権無視の悲劇がおこったといえます。 −「無らい県運動」 についてお話していただきたいと思います。 「無らい県運動」 について 1907年に 「癩予防ニ関スル件」 という法律ができます。 業病とか天刑病、 つまり先祖が仏の道にそむく悪いことをしたためにこのような報いがあわられた、 あるいは、 天が天罰をくだした病という言い方がされました。 これは、 家族におおきな影響をおよぼします。 あそこのうちは 「天刑病の家だ」、 「業病の家だ」 といわれる。 だからその病気になると、 ひそかに家をでて、 遠い旅の空のもとで野宿する、 ホ−ムレスになる、 人の集まるところで乞食をする、 お金やものをもらって生活せざるをえなかった。 それが目障りだということで、 救護や保護ではなく、 ハンセン病患者を取り締まる法律です。 この法律にもとづき、 取締の象徴として、 病院とか療養所という名の強制収容所に入れられます。 東北では青森、 関東では東京、 関西では大阪、 四国では香川、 九州では熊本の5か所の収容所です。 その収容所の所長は全部警察官あがりです。 これは取締でなく、 なんでしょうか。 患者を収容している収容所で、 警察官あがりが所長をしている。 これがようやく、 所長が医者に変わります。 ところが、 今度は医者が 「懲戒検束権」、 患者をこらしめたり、 いましめたり、 縛りあげたりする権利を要求して、 所内に監禁所をつくり、 自分の一存で自分たちにそむく患者をそこにぶちこむという法律になります。 そして、 1931年に 「癩予防法」 が制定され、 家のなかで息をひそめて養生している患者も強制収容の対象にしました。 大正天皇の妻、 貞明皇后の寄付金を資金にして、 らい予防協会ができますが、 その会長におさまったのが渋沢栄一です。 法律が改正される2年前に、 愛知県で 「無らい県運動」、 自分の県にらい病をなくする運動がおきます。 この 「無らい県運動」 を全国的に広めたのが、 らい予防協会です。 貞明皇后の誕生日である6月25日を中心にらい予防週間をもうけ、 ハンセン病患者は国の恥だ、 祖国防衛、 祖国浄化のために、 すべてのハンセン病患者を強制収容所に収容しなければならないという大宣伝がされます。 その結果、 国民がスパイさせられます。 国民が国の政策にしたがい、 あそこの家の親父は 「らい病」 らしい、 人まえにでなくなった、 顔がだんだんみにくくなってきたということを、 警察や役場に訴えでるように教えこまれます。 国民自身が私たちのあぶりだしに手をかしてしまい、 全国的に患者あぶりだし運動がおきるわけです。 そういうかたちで、 私たちは強制収容させられました。 収容車がきて、 衿くびをつかんで、 ひきずるようにして強制収容する、 そういう姿があちこちで見られるようになります。 ハンセン病は恐ろしい伝染病であり、 おぞましい遺伝病なのだという、 科学的にまったく相反することがいわれました。 遺伝病なら伝染病であるはずがないのですが、 日本ではハンセン病はいまだに遺伝病であり、 伝染病であると思っている人が多いのは、 この 「無らい県運動」 の経験があるからです。 ハンセン病患者は絶滅すべき存在であるということが大宣伝されましたが、 それが 「無らい県運動」 です。 −今、 石川県出身で療養所に入っておられる方が12名、 また、 67名の方が納骨堂に入られたと聞いています。 療養所に入っておられる方はどれくらいでしょうか。 じつは、 国はハンセン病患者がどれだけいるか調べています。 細かい数字は記憶しておりませんが、 1900年には約3万人の患者がいるという国の調査結果がでています。 そして、 血統戸数、 つまり患者がでた家を含めて血のつながっている家の戸数が約19万戸、 そこに住んでいる人約90万人をこれから発病する集団としてみています。 ですから、 遺伝病であるという考え方がずっとつづくことになり、 ハンセン病患者を強制収容するために遺伝病であるという考え方を否定しなかったのです。 療養所の入所者 裁判に勝った 2001年5月には、 療養所の入所者は 4,400人でしたが、 2004年5月には 3,500人になっています。 1年間に 300人づつ死亡しています。 ハンセン病療養所は国立が13か所、 私立が2か所ありますが、 入所者の平均年齢が77歳ですので、 あと10年たてば、 ハンセン病患者であった私たちは絶滅するでしょう。 そういう状況ですので、 国に私たちは 「生きていてよかった」 と思えるような施策をきちんととってほしいと言っているのです。 この90年間に、 肉親に看とられることなく死んでいった人は 24,000人です。 ハンセン病療養所には納骨堂があります。 それは遺骨になっても引き取りにきてもらえないため、 入所者自身がお金をだしあって、 自分の遺骨をおさめる納骨堂を作ったのです。 そこに、 いまだに多くの骨があります。 死んでなお、 遺族がひきとりにきてくれないのです。 本当に家族は息をひそめて生きているのです。 私たちの患者運動には家族会がないのです。 家族会がないために、 私たちの運動がどんなにすすまなかったか。 薬害エイズ裁判では川田龍平さんが実名を公表し、 同時にお母さんが立ち上がり、 家族会が大きな働きをしました。 ヤコブ病裁判でも家族が立ち上がりました。 しかし、 私たちにはこんなに長い歴史がありますが、 家族会がないのです。 私たちの新しい家族として、 支援する会の人たちが頑張っているので、 私たちはたたかえるのです。 私は検証会議の委員として、 真相究明ために全国の療養所をまわっています。 療養所内では、 さきほどいいましたように、 女性が妊娠すれば中絶・堕胎させられましたが、 水子として流された子供たち、 また研究材料としてホルマリン漬けにされ、 いまだにその姿でいる子供たちもたくさんいます。 私は、 そのホルマリン漬けになった子供たちをみてきましたが、 本当にかわいい顔をして、 普通なら、 もうお祖父さん、 お祖母さんになっている年齢だと思いますが、 それが赤ん坊のかわいい顔をしたまま、 ホルマリン液の中に漬っているのです。 取り返えしのつかない犠牲を、 私たちは払ってきているのです。 恒久的な償いを求めることは、 その名誉を回復するためにどうしても必要なことです。 −谺さん自身の療養所での生活や強制労働の実態について紹介していただきたいと思います。 療養所での生活 私は幼児感染で7歳の時に発病します。 母は病気になったので、 私を近づけないようにしていました。 私は幼少時代、 母はいつのまにかいなくなっていまい、 さびしい時代を過ごしていました。 私が発病したので、 母は服毒自殺をはかりました。 私が大騒ぎをしたので、 発見が早く、 母は助かりました。 命びろいをした母は、 初めて私を抱き締めてくれました。 私の顔に母の涙がおちます。 それが暖かくて、 嬉しかったことを今でも覚えています。 じつは、 母は私を生んだあと強制収容されました。 しかし、 療養所の生活があまりにもひどいため、 父は人間の住むところではないといって母をつれだしたのです。 母は外出をひかえて、 私などを近よらせないようにして暮らしていたのです。 ですが、 私が発病してしまったので、 母は私をつれて、 もう一度、 療養所に入ったのです。 漢方の大風子油という注射が治療らしい治療でしたので、 母はその治療がきかなかったのですが、 私には効くかもしれないという思いで、 私を連れていったのです。 私は母に抱かれた嬉しさで、 母といっしょに暮らせるのだと思って、 ピクニック気分で療養所に行きました。 ところが行ったらすぐ、 母と別れさせられ、 母は婦人の寮、 私は少年舎に入れられました。 そのころ学齢期にたっしている子供たちは、 少年舎には20人、 少女舎には15人ぐらいいました。 国は学齢期の子どもたちの教育をしようという気がない、 私たちは早く絶滅されるべき人間ということですから、 教育しようなど考えないのです。 結局、 手紙も書けない、 本も読めない子どもでは可哀想だということで、 教師の資格のない大人たちが、 せめて読み、 書き、 そろばんだけでも教えてやろうというので、 寺子屋のような学校がありました。 そこに、 私が通うようになりました。 強制労働の実態 当時、 強制労働がすざましいほど行われていました。 重症患者にたいする看護は軽症患者がおこなっていました。 眼の不自由な人、 手足の不自由な人たちの介助も軽症患者が強制的にやらされました。 その他、 約50種類にわたる生活に必要な作業、 たとえば、 道路をなおす土方仕事、 家を修理する大工仕事、 食餌を運ぶ仕事、 そして亡くなった者の火葬などありとあらゆる仕事を患者にさせたのです。 ですから医者のなかには、 ハンセン病療養所に軽症患者がいないとなりたたないなどと言う者さえいました。 医師は人数も少なく、 実際にしていたことは患者の死亡の立ち会いでしたし、 看護婦は患者がちゃんと看護しているかを医師に指示された注射をしながら見張りをしているという状況でした。 一般職員は患者が逃げ出さないように毎日施設内を歩いていました。 私はその職員を監督さんと呼ばされました。 こうした強制労働のために、 私たちはどれほど病気を悪くしたか。 じつは、 この裁判では、 世界のハンセン病の施設のなかで、 日本の患者ほど後遺症がひどいものはないということが明らかになりました。 それはなぜか、 強制労働のせいなのです。 私も小さい時から強制労働をさせられましたが、 職業を身につけることはさせない。 国が好きかってに私たちを使い続けるという状況でした。 ほんとうに人間として認めようとしない生活のもとにおかれていました。 さきほど結婚すると、 男性は断種、 女性は妊娠すると中絶させられると言いましたが、 夫婦が二人で生活する部屋がなかったのです。 療養所内には12畳半の部屋が4つあって、 それが1つの棟になっていたのですが、 その1部屋に結婚した女性たちを5人集めて、 男性は独身の部屋にいて、 夕方になると奥さんがいるところへ泊りにいくのです。 12畳半になんの仕切りもないところで、 5組が寝泊りするのです。 普通なら考えられないようなことが平然と行われていました。 人権を無視する、 人間の尊厳のすべてを無視する、 これがハンセン病療養所の生活でした。 −これからの課題について、 検証会議、 真相究明、 再発防止のとりくみも含めてお話ください。 私たちの4つの要求 裁判で勝訴したあと、 私たち全原協と坂口厚労相との間で基本合意書が調印され、 この基本合意書にもとづいて協議会が設けられました。 そのなかで、 私たちは4つを柱にした要求をしました。 ひとつは謝罪と名誉回復です。 国がつくりだした偏見、 差別を国民のまえで私たちにきちんと謝罪しなさい。 名誉回復とは、 さきほどいいましたように、 肉親に看とられることなく逝った先輩たち、 またホルマリン漬けになった子供たちを含めて私たちの名誉を回復させるという要求です。 ふたつめは社会復帰、 社会生活支援です。 社会復帰をしたい人には、 十分な生活をしていけるだけの保障費、 月々の手当てをだしてほしいという要求です。 3つめは在園保障です。 今となっては社会復帰ができない、 高齢化がすすみ、 不自由さもましてきた、 家族との関係も絶えてしまっているという入所者が多いのです。 もうここで暮らすしかないという人にたいして、 一生涯、 人間として生きてきてよかったと思わせる保障をしなさいという要求です。 4つめは真相究明です。 なぜ、 このような誤ったハンセン病政策がおこなわれてきたのか、 なぜ、 私たちはこのようなひどいめにあったのか、 再発防止のためにも真相究明する必要があります。 検証会議 この要求を入れて、 国は日弁連法務研究財団に委託するかたちで、 文化人やマスコミや学者などを含めて、 真相を究明する検証会議が国の予算でできました。 そのなかに私も含まれました。 私は学歴がありませんが、 検証会議の委員になって職歴がはじめてできました。 また、 みなさんご存じの金沢大学の井上英夫先生が検証会議の委員になっておられます。 先生は、 なにを検証するかという検証会議のプログラムにしたがって研究し、 報告書をまとめる検討会の委員長をしておられます。 私たちは、 井上先生と力をあわせながら、 真相究明をしています。 2005年3月に最終報告書がでますが、 これを 「お蔵入り」 させないことが大切であると思っています。 この報告書の内容は、 なぜこのような誤ったハンセン病政策がおこなわれたのかという、 被害の実態を明らかにしており、 膨大なペ−ジ数になると思います。 これを厚生労働省にしまいこませないために、 再発防止策として、 今、 私たちは 「患者権利法」 を求めています。 厚生労働大臣に再発防止のための提言を作成し、 「患者権利法」 の策定、 そのための予算の確保とロ−ドマップ委員会の設置を求めています。 ロ−ドマップ委員会は、 この報告書を 「お蔵入り」 させないで、 報告書にもとづく施策がきちんと行われているかを見極めることを目的にしており、 今年の概算要求にはいりました。 療養所の将来構想のとりくみ それから、 これからのハンセン病療養所はどこにすすむべきか、 療養所の将来構想の問題にとりくんでいます。 たとえば、 栗生楽泉園をどうするか。 いま、 入所者が 227名くらいです。 かつて 1,300名くらいでした。 高齢化し、 平均年齢が 78.5歳で、 全国平均より高くなっています。 全国の療養所で年間 300名づつ死亡しているということは、 栗生楽泉園のような療養所が毎年1箇所づつなくなっていくということです。 最後の一人まで、 きちんとした保障を国にさせるために、 私たちが将来構想をうちださなければなりません。 国は私たちの立ち枯れを待っているような状況ですので、 私たちの考えをしめす必要があります。 栗生楽泉園は隔離された場所ですが、 私たちはそこを開放したいと思っています。 22万坪の土地がある、 浅間山が一望できる、 白根山が近くにある、 たいへん景色のいいところです。 しかも、 所内に5ヵ所ある温泉は草津温泉の源泉からひかれている。 温泉を利用して、 一般の人が治療を受けられるような施設に変えたいと考えています。 今となれば私たちは社会復帰できませんが、 いながらにして社会復帰するためには、 ハンセン病療養所のハンセン病という看板をとりはずして、 多くの人たちがあそこに必要な医療を受けにくる、 温泉治療にくる、 そして高齢者ケアの施設を作り、 あるいはがん終末期の施設をつくるなど、 国民に開放する将来構想を考えています。 これは草津町の町長さんもたちあがり、 草津町にとっても栗生楽泉園を医療機関として、 あるいは福祉施設として存続させたいとし、 町長さんが住民運動の先頭にたっています。 これは全国の療養所のなかで初めてのことです。 この問題でも井上英夫先生がタッチされています。 井上先生は国民医療研究所の幹事ですので、 井上先生も加わってこの運動がすすめられています。 私たちは、 多くの人たちといっしょに医療を受けられる、 いながらにして社会復帰できる療養所につくり直そうという、 希望を胸に、 その夢をかなえるために、 いま全力投球しています。 −入所されている方々の要望や課題についてはどうでしょうか。 そうですね、 ふるさとへ、 本当に胸をはって、 いつでも帰れるような方向にすすめばよいなあと思います。 2003年の暮れ、 熊本では、 県のふるさと訪問事業で、 県の職員が黒川温泉に入所者20名ほどといっしょに泊まりたいと予約にいったら、 ハンセン病元患者を泊めるわけにはいかない、 ほかの宿泊者の迷惑になるといわれました。 まちがった法律のもとに私たちはおかれていたことが裁判でうちだされたにもかかわらず、 その熊本で、 元患者を泊めるわけにはいかないと言われました。 私たちは抗議しました。 そうしたら全国から、 百数十通の手紙がきて、 おまえたちはなまいきだ、 おまえたちと一緒に風呂に入れるか、 おまえたちは人権なんかないというような、 見るにたえない、 聞くにたえない言葉が私たちにあびせられました。 私たちは大きなショックをうけました。 国民のなかに、 まだ私たちにたいする偏見、 差別がこんなにあるのかという思いがしました。 偏見、 差別のない21世紀を築くために しかし、 同時に、 先ほどいいました私たちの支援する会の人たち以外にも、 このような事件がおきたことについて憤りをもっている人たちも多くいます。 私たちが感激したのは、 地元の高校の生徒たちが、 みんなが風呂に入るのがいやなら、 私たちが入所者のみなさんと一緒にはいりましょうという大きな支援がありました。 私たちは絶望しません。 偏見、 差別があるなかで、 多くの人たちの善意、 多くの理解をさらに深めて、 私たちがほんとうに解放され、 人権問題が日本でも解決され、 このハンセン病問題をつうじて差別のない21世紀を築くために、 私たちはこのハンセン病の歴史を語り続けなければならないと思っています。 (拍手) (こだま ゆうじ/ ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会会長) 本稿は、 2004年11月20日に行われた 「ふるさとにハンセン病元患者の方々を温かく迎える会」 での講演内容に加筆していだだいたものです。 |
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