『医療・福祉研究』Nα5()ct.1992 一特集/脳死・臓器移植を考える 脳死・臓器移植問題を考える 一宗教者の立場から 一 真宗大谷派願勝寺住職 今 川 透 |
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1.はじめに2.治療と看護について 私は浄土真宗末寺院の一僧侶であり、過去二回(一回目は8年前大腸癌で大腸の%切除、二回目は1992年3月肝臓癌摘出)ガンの告知を受け、入院、手術を受け現在通院療養中の−患者でもあります。 私にとって、この二度のガン告知と手術の体験は、私の人生観が根こそぎ見直させられ、宗教心(信仰)も亦、根底から問い直されるという尊い試練であり、この試練によって私は改めて一人間として、又、一宗教家として目覚めさせられたと思っている。と、同時に一人の患者として、現代医療が当面している様々な問題も否応なしに見せつけられたことでもある。 これらの体験は総て私を、ある時は絶望と不安のどん底へ突き落し、ある時は私を描疑心のかたまりと化し、医療不信から人間不信にまで落ち込ませ、又、ある時は激しい怒りや自己嫌悪など、狂おしい思いに駆り立てるものであった。その反面、退院後は、これまで見えなかったあらゆる生きものの生命が美しく光り輝いて見える法悦と歓喜の境地へ導いてくれるものでもあった。 こうした体験を踏まえて、一宗教家、一患者としての立場から、私の鬼、聞、思、考した現代医療が当面している様々な問題、「治療と看護の問題」「いのちの問題」、そして「脳死と臓器移植の問題」等について述べて見たいと思う。 発病、入院、手術をつの機縁として、私は、多くの医師、看護婦、患者と出会うことが出来、夫々の方々から沢山の事、色々様々な問題を教えて頂いたと思っている。その中で、出会った人々の誰もが共通して当面し、苦悩している間遠が「治療と看護の距り」の問題であったと思う。 今日、医学の急速且つ高度な進歩に伴い、病気に対する治療技術も目覚ましい発達をとげて釆たことは喜ばしいことである。が、その中で治療技術の急速な進歩に対して「看護」という由jが人きく淑り残されるという結果が生じて来ているということは、誰しも南めない事実ではなかろうか。つまり医療の現場では、医師も看護婦も、診察、検杏によって得られたデーター(カルテ)だけを見て治療に当り、患者個々の人間的、或いは、精神的、社会的な苦痛や苫悩とその訴えに耳を傾け、対応することが極めて少くなって来たということである。“3分間診療”という言葉が象徴するように、多忙を極める医師や看護婦を見ていると、それも無理からぬことのようにも見えるが、柴してそれでいいのだろうか、(勿論、緊急に、しかもあらゆる先端技術を駆使して当らねばならない問答無用の患者もあるが)。この現象は私には医療がその原点から相当に距りつつあるように見えて仕方がない。 高齢化が進むに連れて、現在、そして、これからの患者の多くは、医師及び看護婦、そして家族からの優しい心の篭った「ケアー」をより必要とする方々ではないだろうか?今日在宅ケアーが見直され、ボランティアによる介護の必要性が叫ばれ、「畳の上での往生」とかホスピス(ビハーラ)でのターミナルケアの要望が強くなってきていることは、如実にその事を物語っていると言わねばならない。この事は“医療”の昔からの一貫して変らぬ原点であり、決して見失ってはならない指針でもある。少し酷な言い方をすれば、今日の先端技術の粋を集めた大病院はまさに“人体修理工場”としか表現出来ないのではないだろうか?。いくら技術が中心、技術が先行する医療が時代の趨勢としても、病院はせめて“人間修理工場カ であって欲しいものであり、切望されるところである。 この分だと医療は益々人間性を失っていくであろうと危惧される。そしてこの事が市民の医療に対する不信感を増幅しているということにも当事者はもって気付いて欲しいもである。 3.現代の人間戦 ここで少し人間の価値及び人間の存在意義ということについて考えてみたいと思う。 現代の社会は、人間の値については、人間そのものよりも、人間の持つ労働力、生産力により大きな価値を認め、そんな意味で、どれだけの有用性を持っかという功利主義が横行している。 このような状況では、癒る見込みのない、死を目前にした「いのち」、又は、障害者の「いのち」には何等価値が認められないことになる。言い換えれば、経済価値のある生命は助けるが、それのない生命はどうでもよいという考え方であり、生産力のある者は救うが、無い者は見捨る。働ける若者は助けるが、現役を引退した老人はどうでもよいということにもなる。障害者、死刑囚も勿論例外ではなくなる。そこには生命の専厳など微塵も感じられなくなるのである。更に恐ろしいことは、後に例示するように、彼等は将来移植されんとする臓器の供給者と考えられるようになる恐れがあるということである。これは決して一一一部の医師だけの問題ではなく、我々自身も亦、社会の様々な場面で何時の間にかそういう価値観に押し流されているからと考えなければならない所である。 このような誤った生命の価値観に支配されて為される脳死判定や臓器移植が「神の愛の実践」だとか、「菩薩l)の慈悲心の発露」だとか、「人類愛」「博愛の精神」などと、どのようにその行為を美化し、合理化してみてもその行為の非人間的な後めたさはどうしても拭うことは出来ないであろう。 科学・技術の急速な進歩に対して、生命の価値や存在意義・専厳を考える哲学・倫理思想の発達が後れをとり、宗教も世俗化、職業化する中で、何時しか生命の救済を忘れたために今や現実への対応が困難な状態にある。科学技術の独走を許さない為に、生命、そして死そして生を考える倫理・哲学の研究と普遍宗教2〉の真撃な布教活動が切望されるとこ ろである。 特に我が国に於ては、今世紀後半からの科学技術の急速な発達とは裏腹に、「死」は依然としてタプーであり、人々にとっては考えることすらおぞましいことのようである。死と対決し、死に挑戦する病院で何故4のつく病室、病棟が無いのか、「友引き」など古い暦にまつわる迷信が現在なお我々の日常生活を左右させる力を持っているのは何故か?又、加持祈祷、占い、霊媒、そして目前の現舶虚})を掛こ、人間の欲望を金銭で釣り工げる新興宗教に、政治家や学者、医師までが惑わされているこの現実。巨大な仏像を建立し、観光客目当てに金儲けを企む企業に、いとも簡申に宗教法人の許可を与え、宗教の混乱を招いている宗教行政のお粗末さも厳しく問い直されなければならない所であるが‥。要は、日本人の多くが中世から近代、そし て現代へと移り変わる過程に於て、真実の人間救済を説く普遍宗教を見失い、宗教心を喪失してから世紀(3世代〜4世代)以上が経過してしまったということであり、もはや我国は世界でも珍らしい宗教不毛の砂漠と化してしまった感がある。これはある意味では公割こよる環境汚染、破壊よりももっと深刻問題と見なければならないと思う。そして、かく成り果てた原軋ま、明治以後の我が国が、西欧の科学文明を模倣追従する中で自らが東洋の−一民族であることすら忘れて、富国強兵を策とし、科学技術文明の発達に力を入れ、その為に、歴史、哲学、倫理、宗教思想の学びを怠り、時にはこれを弾圧までして押さえて釆たことに依ると考えねばならない。 4.仏教の死生観 ここで少し古来日本人に大きな影響を残してきた仏教の死生観に触れてみたいと思う。仏教とは本来、「死すべき身」である事実に目覚め、主体的な立場で生を考え、死の受容を説くものである0これを無常の諦掛)という。仏教は、死をタプー祝している現代人に対し、死を凝視し、死すべき身の事実を明らかにする(あきらめる)ことを説く。 世の総ての現象、事物は、そして我が身も亦、一刻も留まることなく変化し続いている。しかし、我々はそれを変らないと思う。それは妄想である。変化しないと思うものが実際には変わる故にそれが苦となるのである。常でないものを常と思い執着するが故に吾が生ずるのである。身近な人の死の事実は、我が身も亦死すべき身であることを気付かせてくれる。死を見詰めることによって、死すべき身であることが教えられるのである。そこに死を受容し、死を超えていく世界が拓かれて来るのである0仏教ではその事を卦こ展開し、独自の死生観を持 その代表的なものが“二種生死”という見方である0それは「分段生死」と「不思議変易生死」と言われるものである。「勝撃緯」や「成唯識論」などによれば、分段生死とは凡夫の迷いの世界の生死で、良い、短かいで測られる身命、因縁力に従った傾りある生ち打と示される。つまり、誕生に始まって、死によって終るという有限の生命、即ち、我々の一般的な考え方による死生観である。それは、生と死を実体視し、分段(分断)している立場である。従って死は生を断ち切るものであり、生はいっも死に脅え、死の不安に在った生である0又それは、どこまでも我見、我執にとらわれた死年観であり、かくして死は怖れ、忌み嫌うべきもの、生は浄らかで好ましいものとされるのである。 それに対して、仏の悲願力によって身命を改転したもの、つまり、定まった際限のない生死を「不思議変易生死」という。この場合、変易とは、姿形の区別や、寿命の長短でなく、普遍の意味である0又それは仏(夷理を悟った人、真理そのもの)との出合いによって気付かされるものであり、その働きが計り知れない故にそれは「不思議」と名づけられているのである。つまりここでは、人間の生死に対する考え方が仏の働きによって転改させられた立場として受けとめられる。「賜わったいのち生命」「生かされている生命」というように、自分の所有物でなかったと気付かされた生命であり、「老い」も「病」も「死」も亦同様に賜わるものとして受容される立場である。仏の働きによって、自己の間違った在り方が問われ、生命に対する自我的な価値観が転ぜられた立場である。換言すれば、長短のとらわれ、有用、無用等様々な価値観をも超えた立場である。 このように仏教では、人間にとって不如意且つ不可避な生死の苦からの解放を、分段生死を離れて、不思議変易生死の自覚という生死観への転換によって果たしてきた。この立場に立っ時、無生無死の永遠の生命、或いは、生死分かるる以前の無相の生命、即ち、無生の生を悟ることが出来るとするのである。 「生きてよし、死んでよし」(妙好人詩人木村無柏) 「生のみ我に非ず、死も亦我等なり」 「死生の大事をこの如来5〉に寄託して、少しも不平や不安を感ずることがない」(明治の先哲清沢満之、[我が信念]の言葉)「人生良きが故に尊からず、人生探きが故に等し」とは、顔面の腫瘍で21才で命絶えた「若きいのちの日記」の著者大島みち子の言葉である。 性と死の うねりをなして 常住の いのちの水の 流れゆくなり」「無量寿を 念ふこころに 死を超えて生もおもはず ただはがらかに」郷土石川の産んだ傑僧暁鳥敏師の歌もこの不思議変易生死の生命を朗らかに歌いきったものであろう。 深き人生、納得出来る人生はどこにあるか、必らずしも長命にそれがあるとは言われない。深い信仰心に裏打ちされて生命そのものを深く問いかける学びがないとそれは得られない。 長短の価値観を離れ、「今」に目覚め、「永遠」に出適った人達の言葉はそのことを最も端的に証している。古来、深い信仰心と不思議変易生死の内勧6〉によって生死を超越して生命を卑した人は枚挙にいとまがない。仏教とはこのようにして人間の生死に関わってきた教えである。 5・脳死と戚器移植について(仏教の立 場から) 次に脳死と臓器移植について宗教の側から考えてみると、脳死を人の死とするか、臓器移植を認めるかについては、我が国の宗教界はまだ意見開陳の段階であり、その幾っかを紹介すると、◎ 立正佼成会は、脳死による死の判定には反対の立場を採る。「脳の機能が止ったから と言って、人の死とは言えない。それは、脳中心主義の生命観」という考え方である。◎ 大本教本郎もやはり反対の立場である。 「脳死状態であっても心拍のあるうちは個体死ではなく、脳の部分死に過ぎないから」という理由からである。 ◎ 神道に於ては「脳死を死とすることは認められないが、臓器移植については、神道に否定する理論はない」というのが大勢らしいが、一部には「脳死を確実に判定できるなら、科学を尊重する立場で認めてもよい。しかし、臓器移植は認められない我が国では、人間が死ぬともがりという期間を置き、魂が再び死者の体に担えることを願ってきた。その感性を認めずに、一刻も早く移植しようとする医師の要請には応えられない」という意見もある。 ところが伝統仏教といわれる各教掃からは現在なかなか掛一的見解が出てこない。例えば、臓器移植について「我が身を捨て、残された臓器を人の為に与えるのは菩薩の亨邑と讃える仏教者も居るが、他方「死者の臓器提供を受けて延命しようとする生への執着を悲しむべきではないか」、「移植による延命は死からの逃避に過ぎない」とか、極論としては、「臓器移植はカニバリズムさ〉(人肉食)ではないか」という意見もあり、多種多様な意見が交錯しているのが現状の段階である。 結論を早く出したからといってセッカチとは言えない。蓄積がものを言った例もあれば、宗祖が時代を越えて真実を言い当てている場合もある。 結論の出方が遅いからと言って、怠惰であるとも言えない。宗祖の言葉が深いからこそ様々な解釈が出来ることもある。論議を尽す からこそ時間が経っこともある。脳死臨調の答申が出るこの機会に死生観を扱う宗教団体のそれぞれの力豊が試されることになろう。 (朝日新聞「窓」欄より宗教界の脳死観)参考 ここで先ず、脳死を人の死と認め、脳死者からの臓器移植の実現を推進する側と、それに慎重ないし反対の意見の論点を整理すると次のようになる。 <賛成意見> (1)脳の機能が人間の生命活動を司る中心的な機能であるのだから、脳の不可逆的な機能の停止こそ医学上の人間の死の定義としてふさわしい。従って脳死の時点でそれ以上の医療行為を停止してもよい。 (2〉 脳機能の不可逆的停止の判定は一一定の規準に従って手続きを踏めば確実に判定できる。 (3)脳死が人の死と認められるなら、脳死者本人の生前の意思、或いは、近親者の同意があれば脳死者からの臓器提供による臓器移植を認めてもよい。 〈4)海外では多くの国で脳死が人の死と認められており、脳死若からの臓器移植も実施されている。移植希望者が海外へ出て行く事態を見ても日本だけがこの動向の外に居ることは許されない。 <慎重・反対意見> 〈a=1〉の点は認めるが、(2)に関しては、現行の判定規準では判定後にも「内的意識」が存在している可能性を完全に排除することはできない。従って、現在示されている以上に慎香で確実な判定規準を採用すべきであり、それが現場に於て実行不可能なものであれば、脳死判定を実施すべきではない。 (b)一般の人間が脳死者を目の前にした場合、心臓は動いており、まだ体が暖かい、などの点から、それを「その人の死」とみなすことについては、概念的に理解できたとしても心情的には抵抗がある。ましてその脳死の状態が、その人の治癒と延命を願って為された医療行為の結果であって見れば、簡判こその状態を死と割り切り、そういう状態から、他者の延命治療にそれを切り替えることに踏み切れるものではない0こうした・般人の「自然な感情、心胤を重視すべきである。少なくともこうした感情を考慮した慎車な対応ができる医療体制の確立が先決である。 (c)人Ll呼吸器によって脳死状態になっている人に長時間医療処置を継続することに問題があり、その時点でそれ以上の医療行為を停止することが医療倫理上二許されるとしても、その脳死者を死体をみな他の医療のために資源として取扱ってよいかどうかは全く別の問題である。特に現在の脳死問題は臓器移植の必要性と結びっいて出来ており、ここで安直に死者からの臓器移植が認められると、脳死体は移植臓器として稀少価値を持った資源と考えられ、移植口可能な臓器確保の為「早すぎる脳死判定」、意図的、人為的に脳死状態が創られるという“合法的殺人の可能軒、“脳死判定の軌上めの効かない拡大解釈”、更には甥療行為及び医師に対する不信感の増大を招く【結架となりかねない。少なくともそうした可能能性を排除する医療体制が十分に整備されない限り脳死省からの移植は実施すべきではない。 (d)移植医療は、他の医療行為と異なり、第三者の理解・協力・善意が前提とされる医療であるから、この第三者意思の尊重と権利が十分に保証される体制が整わない限り、技術的に可能だからといって即座に実施することには慎重でなければならない。(「脳死議論が問うもの」甲南大学非常勤講師渡辺啓貞)参考 8.臓器移植医療に対する不安・不信・そして恐怖感 臓器移植医療の発達の歴史を調べてみると、私はそこに言い知れぬ不安・不信・そして恐怖を感ずる。 一例として「心臓移植」についてみると、動物実験としてffわれたのが1905年から始まったと記録され、以後1960年スタンフォード大学のラウラーとシャムウェイ教授によって行われた犬に対する実験の成功(術後4日〜5週間生存)(この実験の成功は「心臓移植の夜明け」をもたらしたと称賛されている)までに55年もの歳月がかかっている。その問どんなことがあったか?朝鮮・ベトナム・中東戦争は電磁気医療機・核医学・免疫抑制剤、特に人工蘇生機の開発と実用化を促し、その結果「生きた体に死んだ脳」「脈が触れる死体」という奇妙な症状(脳死)が作り出されたこと、その他、麻酔技術の発達等々目覚ましいものがあった。移植手術の成功が「神の奇跡」と称賛される反面、「神への冒涜」とも批判されるように、この医療技術発達の歴史の裏側には計り知れない動物と人間の犠牲が存在していることが伺われ、現在そして将来にわたり我々に一一抹の不安感を持たせるのである。今日、十分な説明もなしに行われる色々な検査、スパゲティのように電線とチューブに繋留された患者の感ずることは自分が医学の実験材量としてモルモットのように扱われているのではないかという不安感、不信感である。又、腎臓、肝臓その他の臓器についても、生体から生体へ、死体から生体へと移植する技術の開発、それに伴う免疫抑制剤の開発が画期的に進んでいるが、これらの進んだ医療には多額の経費を必要とするので市民の総てがこの医療を機会均等に受けることは桐難で、結局財力か権力を持つ者だけがその恩恵に浴することになる。こうした問題は医療を離れた社会問題、倫理の問題であり、こうした面からの条件の整備も行われないと医療は−〉一部の豊かで権力を持った人への奉仕となるか、医師の医学的興味と好奇心の満足そして手段となり、益々信頼感を失うことになりかねない。 更に、移植医療が必要とする臓器の需要と供給のアンバランス(需要に対して供給が極端に少ない)は、必然的に「死」の判定規準の拡大解釈を必要とし、それは遠からず(否、既にそうなりつつある)現在の脳死の判定だけでは済まなくなり、無脳児、死刑囚、植物人間、更には障害者にまで及んで行くかも知れない。若しそうなるとしたら、それは恐怖以外の何ものでもない。 人間のみならず、あらゆる生物の存在を功利的な価値観でしか計れない現代合理主義の行く末が深刻に案じられるところである。 7.医療者側からの反省 「外科は外道である。なぜなら、切れば傷が残るではないか。切除すれば欠陥人間を作ってしまう。これで本当に患者を治癒したと言えるだろうか。本当の治癒とは、体に傷−つ残さず、患者自身の持っ自然的な治癒能力に医師が助勢して、患者を元の健康体にもどすことである」。 これは私が最近聞いたある外科医の述懐である。今尚第一線で活躍中の医師からこんな言葉が聞かれるとは、全く思いもかけなかったことであり、大変な驚きと感動を覚えたことである。 又、かつて8年前、私の大腸ガンの手術を執刀された外科医は、その後他の病院の副院長として転出され、現在自分の勤務される病院で「一般病棟におけるターミナルケアの実践」に早力されている。「私は大病院のシステム化された医療に対して前々から疑問を感じていたので、転院を機会に自分で納得出来る医療として“一般病棟におけるターミナルケア”の実践に踏み切った」という。あの冷たい感じの外科医から一一転して優しい暖かな感じの、そして本当に信頼できる医師への転身に深い感動を覚えたことであった。 どう考えてみても今日行われている、或いはこれから行われようとする臓器移植医療は(生体問.死体から生体へ.を問わず)医療の本来的目的から外れ、人道からも外れたものと言わねばならない。現役の医師や看護婦の中から、先に挙げたような自己批判の声が聞かれることはそれを如実に物語っていることと思われる。 「外道」とは仏教用語であり、漸悦の心を欠いた人間の行為と説く。浄土真宗の宗祖親鸞は、著書「教行信証9)」の信の巻の中で『「漸」は人に羞ず。「悦」は天に羞ず。これを「漸悦」と名づく。「無働悦」は名づけて「人」とせず。名づけて「畜生」とす』と述ベている。 1992年6月30臼朝日新聞の朝刊第一面のトップにアメリカ、ピッツパーク大学医学部で肝不全の患者に、人間に近い大型サルである排排の肝臓を移植する異種問肝臓移植が行われ、この手術にはトーマス・スターツル教授の他に同大学の日本人準教授藤堂省氏(外科)や、カリフォルニア大学の岩城裕一教授(免疫学)等を含めて15人の医師が参加したと報道され、大きな衝撃が全国に伝わった。 これについては、称賛、誹誘、様々な意見が戦わされることであろうが、多くの人々の心の中には恐らく「何をそこまで……」「とうとうそこまで・・‥‥」「自分がその患者だったらそんな医療は受けたくない」「絶滅に瀕している動物の生命を人間の欲望の犠牲してはならない」等々…‥・の気持が強く働いていると思われる。 今や先進諸国を支配し始めた人間中心の合理主義の考え方と、盲目的に高度技術社会へと駆り立てる人類の欲望は、もはや人間の意思を離れて独走し留まることを知らなくなってしまった感がする。こんな人間の行為の身勝手に対して、「臓器の提供は崇高な神の愛の行為である」とか、「身を捨てて他を救うのが菩薩の行である」とか、「ローマ法皇が臓器移植を是認されたから」とか、色々と臓器移植をめぐってこれを正当化、合理化しようと、聖書や仏教教典や聖人賢人の言葉が援用されるが、信仰心どころか人間としての齢らいも、慎しみもない人間が如何に巧みにそれらを利用し、言い繕ってみても所詮空しいことでしかなく、ただ人間の愚かさを曝らすだけのことでしかない。 8.夢か現実化する恐ろしい詰 1973年、アメリカの生命倫理学の草分けとも言われるウィラード・ゲイリン博士は「死者からの収穫」(上1arvesting The Dead)という論文を発表した。彼はこの中で人工呼吸器の開発がもたらした脳死者の体を「ネオモート」(Neomort)=新死体と名づけ、このネオモートの恐るべき利用の可能性を予測した。この論文が発表された時大抵の人はこれを夢物語として笑いとばしたという。が、現在ではどうなっているか? それは次のようなものである。(その一)訓練=Trainingである。ネオモートは現在実験用動物や献体された死体を使って為されている解剖・検査の他、聴診打診等の実習材量として医学生達の技術訓練の為に利用できる。 (その二)実験=Testingである。(その一うと重複する点もあるが、ネオモートは苦から囚人・捕虜、ボランティアなどを実験台として実施してきた新薬や新しい治療法を彼らに代って試験できる。死体であるから薬の毒性や治療の危険性の限界を越えて実施できる等幅広い実験が可能になる。(その三)は貯蔵=Bankingである。血小板や白血球の貯蔵はネオモートを使えばはるかに容易となる。肺・腎臓・心臓・卵巣など将来移植が可能となる臓器すべての貯蔵が可能となる他、ネオモートはリンパ系の成分を育て、貯蔵する為の「培養地」としても利用できる。(その四)は収穫=flarvestingである。ネオモートは安定した血液の供給源となる。その他骨髄・抗体・骨・皮膚・角膜・軟骨などすべてが収穫出来る対象である。(その左)は製造=Manufacturingである。稀少価値のホルモンなどネオモートに生産させ随時利用することが可能である。 まことに恐ろしい考え方である。しかもこの夢物語りは何時しか正夢となり、今や移植の為の臓器のバンクは着々と世界中で実現されている。これを何処まで認めるか。人間が人間を踏みはずさない一点の見極めが、今こそ真剣に考えられねばならない時ではなかろうか? 9.むすび 先にアメリカピッツパーク大学のスターツル教授が狒狒の肝臓を人間に移植し、成功をおさめたという新しい報道を書いたが、同じピッツパーク大学でスターツル教授の後継者とも言われ、肝臓移植の昇一人者とされる日本人医師岩月教授はこんなことを言って居られる。「今日医療は、悪い個所を切除する時代から、移植するという方向に走っています。でも、私はこれが終局とは思いません。これはあくまでも過渡期のものであり、将来は違った治療法になると思います。移植しないでも治せるようになるかも知れないし、移植も人間の臓器を使わず、人工のものになるでしょう。21世紀中には実現するかどうか分りませんけどね……」。現に移植医療を実践して居る医師の言葉としては注目すべき発言であると思う。これに、先述した「外科は外道である」とか、現代のシステム化された医療に納得出来なくなって、ターミナルケアの実践を始められた外科医のこと等併せて考える時、私はこれらの医師の心の中に我が国の医療の進むべき方向が示唆されていると思う。それは、日本人の中に、知らず知らず、長い歴史の堆積の中で醸成されてきた素朴な宗教心(仏教思想)を日本人の心として医療を考えていくということである。それは又、憂の傍に立っ人の心、即ち“優しい心【である。仏の慈悲の心とはまさにこの“優しさ10)”のことなのである。 人間が人間の心を失った時、それは人間なるが故に悪魔よりも恐ろしい存在となる。万物の霊長と傲り高ぶって人間はこれまでどれだけの罪を重ねて来たことか。そして今、医 療も亦、人間の心を忘れ、生きとし生けるものの専い生命を忘れた医療という罪を重ねようとしているのではないか?「医療よ外道に走ることなかれ」“知恵”に依らず、“智慧11)”に導かれて、心を厚くして人問を、そして生きとし生けるものすべてのいのち生死を救う医療を模索して欲しいものである。 生死を救うことが出来るのは、決して医療だけではない。今こそ医療と宗教がかつてそうであったように、その本来的な関りを取りもどさなければならない時点に釆ていると思う。 そして、技術の最先端を行く我が国とすれば、まさに近い将来行き詰ることが予測される臓器移植医療に対して、「延命」のための手段としては世界に先駆けて、精巧な人工臓器の開発を以って道を拓くことこそ重要な課題であると思うし、実現可能な方法ではなかろうか。 <参考資料> ・「脳死」NHKスペシャル 立花隆 NHK取材班著。 ・「脳死が問いかけるもの」真宗ブックレットno.2。 ・「脳死・臓器移植を考える」田代俊孝著。 ・「耕鸞の生と死」デスエデュケーションの 立場から 田代俊孝著 <註> 1)菩薩 サンスクリット「ボーディサットヴァ」の音訳。もともとの意味は「さとりをめざす者」。大乗仏教では「なによりも 利他の実践を先としつつ自己の完成をめぎす者」の意味。 2)普遍宗教人間の良い歴史の中で、一民族、層家の宗教ではなく、時間・空間を越えて多くの人々を救済している宗教。仏教、キリスト教などを指す。 3)現世利益(げんぜりやく)この世でうける利益。 4)諦観(たいかん)本質をよく見きわめること。あきらめ(あきらかに見る)の境地。 5)如来 真如つまり真実の世界より来れる者という意味で、仏のこと。 6)内掛精神統一一により、自分の心、心理(精神)状態を観察すること0仏教では悟りへの手段として重視する禅定、身しらべ等。 7)頼(もがり)苫、貴人の死体を葬る前に、棺に納めてしばらく安置したこと、またその為の儀式。霊魂が再び死体にもどると信ずる神道の思想による。 8)カニバリズム 人肉食0人間が人間の肉を食べるという風習。 9)教行信証 浄土真宗の根幹をなす真実の四法、つまり真実の教え、真実の行、真実 の信、真実の証(さとり)のこと。親鸞の著した浄土真宗の基本的聖典。 10)優 優しいという字は人偏に憂と書く。つまり憂の傍に立つ人、他人の心の苦悩、痛みのわかる人を優しい人とする。 11)智慧と知恵 仏教では智慧と知恵を峻別する。智慧は物事のなりたちを正しくとらえ、真実をみきわめる認識のはたらき。さとりはこの智慧の完成をさす。仏智(覚者の智慧)。これに対して、知恵は人間の 理性による認識の働きをさす。」 今川 透1925年埋まれ。大谷大学卒。 石川則、松挿今江町7-219 真宗大谷派願勝寺件職 ガン告知と末期医療を考える会主宰 医療と宗教を考える会々員 |
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