−<特集>患者の権利について考える 0 さんが求めた権利 わのめ会「住民の権利」学習班 |
|
---|---|
1.0さんとの出会い 「『わしゃ海部首相から金杯と表彰状をもらった偉い人間やぞ!』『わしが死んだら町で葬式出さんならん』とおかしな事を言うし、いつ行ってもパンツはおしっこでグショグショやし、着替えようともせんもんで臭くてかなわん。一体どうしていったら良いもんかねェ」と町のホームヘルパー(以下「ヘルパー」と略す)から0さんのことで初めて相談を受けたのは、平成5年7月のことだった。じづくり話を聴いてみると、@82歳(男性)で年金で(月額6万5000円)独り暮らしをしている、A食事の支度ができない、Bパンツが尿で滞れていても誰かが着替えを促さないかぎり着替えようとしない(失禁?)、C「隣の奥さんが自分の金を取っていった」とか「タンスに入れておいた服が取られた」と言う(被害妄想?)、D「海部首相から金杯と表彰状をもらった偉い人間だ」とか「死んだら町で葬式せんならん」と言う(誇大妄想?)、E近所の鼻つまみになっている、F本家との仰が悪い、G金の使い方が下手で預金通帳はいつも赤字である等々、独居の後期高齢者にありがちな間寛がズラリと並んでいた。次のヘルパー訪問に同行し、0さんと初めて合った。 居間の炬燵(電気は入っていない)に足を入れて0さんは坐っていた。あたりは尿のすえた臭いが立ちこめ、パンツは尿でぐっしょり滞れていた。ヘルパーが手助けして着替えをしている間に全身の観察をしようとしたが、初対面の保健婦を警戒してか、身体を見せては貰えなかった。そして、口から出た言葉は「わしゃ何処にも行かんゾ!」「この家を建てたのはワシやし、守らんなん」と、あたかも保健婦が0さんをこの家からひっぱり出しに来たかのように思い込み、家の外に出ることをかたくなに拒否した。 保健婦は、自分で地域で生活できなくなっている0さんの行く末と、行政で行えるサービスを重ね合わせて「施設入所になるかな」と判断し、そのための必要な手続きについて「さて、どこから攻めようか」と考えながら0さん宅を後にした。 数日後、当の0さんが何とYシャツとステテコ姿で町内を歩いていたところをヘルパーが見つけて、保健婦のところに連れて来た。話を聴いてみると、町の中心部から数十血離れた自宅から歩いて「年金を下ろしに銀行まで来た」と言う。 これ幸いと「お医者さんに診てもらおうか?」と言うとすんなり承諾した。施設入所には医師の静断音が必要だからである。町のデイケアセンターで風呂に入れてから病院を受診させた。静断は「心不全と脳卒中を起こし易い状態なので、服薬が必要」ということだった。 その後に開かれた「高齢者サービス調整チーム会議」で、独り暮らしで痴呆がある老人を地域では看ていけないから、施設への入所が良いという結論になり、福祉係に入所の相談に行くと「本人の希望がなければ入所できない」と言われ、暗礁に乗り上げてしまった。 0さんに特別養護老人ホームを見学してもらった時、最初は黙って鋭明を聞いていたが、段々と厳しい顔つきになり「見るだけで、ここで生活する気はない」と、しっかりクギを刺されていたからである。 2.0さんから突きつけられた地域福祉の課題 0さんは自分の家で暮らすことを求めてきた。たとえ高齢で矢祭と痴呆と心疾患を持ち、食事が作れない状態であっても、「自分の家で暮らせるようにするのがお前さんたちの仕事じゃろうが」と訴えているようだった。 これまでなら、ヘルパーで対応できない状態になったら施設へ入れるのが通常の措置だった。0さんの場合も、平成5年春から遇2回のヘルパー支援により自宅で生活できていたが、色々な開港行動が出てくるようになってからは対応できなくなり、高齢者サービス調整チーム会議の意見も開いた上で、施設入所という方針が立てられた。保健婦としても当人にとってそれが一番良いと思っていた。しかし、0さんはそれを拒んだ。施設へ入った方がずっと便利で快適なのに…・。0さんの気持ちが保健婦には理解できなかった。 そこで、この0さんをもっと深く、そして客観的に理解するために、保健婦仲間で事例検討を行ったのである。 3.0さんの歩んだ道 明治44年、石川県丁町の世帯数14〜15戸の山間部の農村で、農家の4人兄弟の末っ子として生まれた。古くから近親婚が多い集落で、両親もいとこ婚であった。 小さいころから扉がよく、両親に可愛がられて育ち、尋常高等小学校を卒業後、京都で7年間ほど友禅の仕事をしていた。その後地元に戻り、農業や大工の見習いや国鉄の車両洗いなど様々な仕事についた後、24歳頃に両親から3反歩の田薗を譲り受けて分家した。 昭和11年(26歳)に姪〈柿の長女)と結婚し1男3女をもうけたが、上3人は生後まもなく病死し、妻は27歳で、生後7か月の三女を道連れに、近くの堤で入水自殺した。 昭和18年(33歳)に従柿妹(続柄不明)と再婚し、1男1女をもうけたが、長男は1歳で病死し、萎も昭和39年(本人54歳)に病死した。独り残った唯一の家族である長女は、34歳の時(本人69歳)にノイローゼで先妻と同じ堤で入水自殺した。その後ずっと独り暮らしである。 独立した頃(昭和9〜10年頃)は3反歩の田南で充分食べていけたが、途中で田圃にも出ず家で無為に過ごすことが多くなり、田圃も荒れ放題となった。そんな時に耕地整理が始まり、負担金が出せない0さんは本家にその金を工面してもらったが、その後、その田圃の名義は本家のものになってしまったらしい。事の真偽の確認はできていない。 家屋は親から貰ったものだが、二番日の妻の死後、田圃を担保に銀行から金(130万円)を借りて家を改築し、その借金の返済には苦したらしい。 長女の死後、年金で暮らしていたが、昭和62年(75戎)から独居老人への福祉対策として、ヘルパーの月1回の訪問が開始きれた。その4年後の平成3年〈79歳)頃から「印鑑がない」とか「人が取っていった」と言い始めたが、特に大きな間常にはならなかった。平成5年にヘルパーの増員によって週1回の訪問となり、ヘルパーが食事の支度を手助けするようになった。しかし、それ以外の日の食事は自分で行っており、充分な栄養が取れる状況ではなかったと思われる。 4.「生きる」ってどういうことなんだろう? 0さんがかたくなに施設入所を拒む理由を知りたくて、0さんが歩んできた道をたどってみた。それは、施設入所のための0さんへの説得材料を探すためだった。しかし、0さんがここで76年間暮らしてきた重みと歴史を理解した時に、初めて我々は「わしゃ、この家で暮らすのが当たり前なんだ」「これは、この地域で暮らすわしの権利なんだ」という要求をキャッチできたのである。そして、我々は発想を180度転換した。 0さんは、平成3年頃から(周囲の人の目から見た)開港行動はありながらも、本人の生活には支障はなかった。だから、13年間の独り暮らしが可能だったのだ。ところが、保健婦が開篤行動を見つけたばかりに、0さんは開港のある人となって我々の前に現れたのだ。 福祉の観点で見た障害とは、「身体・清和に障害を持っている人が地域で生きていくことを阻害しているもの」である。0さんがこの地域で生きていくことを阻害している要件を考えてみると、@地域の人たちが痴呆を理解していない、A尿失禁の原因究明と消臭対策が講じられていない、B充分に栄養が取れる体制ができていない、C脳を活性化させる憩いの場がない、D疾患管理体制ができていない等々が挙げられる。これらの阻害要件が解決されれば、0さんは58年間暮らした自分の家で天寿を全うできるのである。 5.「地域で生きる権利」への条件亜備に向けて ヘルパーで対応できない状態になったら施設へ入れるのがこれまでの措置だった。しかし、ヘルパーの活動だけでは福祉の観点からの障害は決して解決しないし、施設の整備とヘルパーの増員だけでは決して住民の権利は守れないということを、この事例は物語ってくれた。 0さんが自分の家で暮らすことを可能にする条件整備を、言い換えれば上記の5つの阻害要件を如何にして取り除くか、そのことを関係者全員がしっかり話し合い、互いの情報を提供し合い、わからないことは共に学習する。まず、その「場づくり」が必要である。 その中から、 (1)痴呆対策(《 》内は役割担当者) 痴呆のおかしさは「脳」が傷害されることによって出てくるものであることを、地域の人々に健康学習を通して理解してもらう 《保健婦》 (2)栄養対策 @訪問、デイサービス等で間断なく援助する《ヘルパー、デイサービスセンター》 A配食サービスの制度化に向けて努力する《町福祉係、社協》 Bヘルパーと栄養の学習を行う《栄養士》 (3)尿失葉対策 @原因の究明をする《医療機関》 A入浴を頻剛こ行い臭いを消す《ヘルパー》 Bオムツの工夫《作業療法士》 (4)憩いの場を増やす(地域の集まり、町全体の集まり、趣味の会)《ヘルパー、デイサービスセンター、社協、公民館等》 (5)医療対策 @疾病予防《保健婦》 A診断・治療・悪化予防《医師》 B服薬管理《看護婦・ヘルパー》 C看護・治療補助《看護婦》 を決めていくことができれば、多くの高齢者(障害者)が地域で暮らしていけるであろう。 「高齢者サービス調整チーム」の役割をここに置くことが大事であることを痛感する。 6.0さんから学んだこと 今回の0さんの事例を通して、我々は住民要求は本人の口から直漢語られるものでなく、住民の要求をキャッチするためには、相手を理解するための過程をどれだけ大切にしなければいけないかを学んだ。更に、地域の保健・医療・福祉の連携が何のために必要なのかということについて、その認識を新たにした。 人が人として尊重されることが如何に難しいことか、そして死を迎えるその瞬間まで地域の中で支えられることが更に難しいことか、この金浦日本で年老いていくことの恐さを考えざるを得ない。 国家権力によって公衆衛生が後退させられようとしている今、一人一人が現場で「住民の権利」の点検を行い、住民とともに学習することを怠ると、我々自身の老後も危ないのだという認識を強め、広げていきたい。 <付記>小論はわのめ会「住民の権利」学習(田中京子、葉名貴江、寺西衣姫、国分恵子)に高崎陽子、細川智美の2名が加わって執筆した。「わのめ会」は保健婦の自主的な研究組織です。 |
|
トップページへ戻る | 目次へ戻る |