−〈特集〉患者の権利について考える
患者の権利について考える一弁護士の立場から
富山中央法律事務所 青 島 明 生
1.異文化に住む医療従+者と患者
 患者の権利について語る場合に、私は、医療従事者にする場合とそうでない人にする場合で違った風に許す。一般の人の場合には患者の権利の内容をそのまま具体的に話せば共感が得られることが多い。これに対して医療従事者に話す場合には、まず、医療従事者と患者は全く異文化に住んでいる、という話しから入る。この文章を読まれる方で医療従事者でない方は、この一節を飛ばして読まれた方が時間の節約である。
 よく病院(「診療所」等も含む。)に行く人は別であるが、健康な人は医療の現場を知らない。もちろん医療が現在置かれている環境も知らない。よほど慎重な人でない限り病気になる前に医療をめぐる状況を研究している人などいまい。そこで、多くの人は病気になって初めて病院に行くことになるが、これまで自分が暮らしてきた社会とあまりに違うことに驚き、とまどわされることが普通ではないだろうか。
 例えば、相部屋、ベッドでの排泄、場合によっては医師以外の他の患者などに自分の裸を見られる、自分の話しを開かれる、どうなっているのかわからないまま長時間待たきれる。日常生活からすると考えられないような状況が出現して来るが、病気なんだから仕方がない、病院てそんなもんなんだろうと自分に言い聞かせ、病室、器具、白衣、そして医療関係者の態度と言った様式と権威に気おされて管理きれてしまい、頭をもたげた疑問は抑えっけられる。情報によっても管理されている。お医者様がどう言われるか不安で仕方がない。看護婦さんも知っているようだが、横嫌をそこねて本当の事を言ってもらえないと困るから心証を善くするように務めよう。そんな非日常、異文化の世界に入った感じが健康であった一般人の実感ではないだろうか。
 これに対して医療従事者の人は、長い間現場にいることによって慣らされているので、いろんなことに対してもなんの違和感も感じなくなっているだろう。
 しかし、自分を中心に考えてみてもらいたい。自分のことは自分で決めるということが近代社会の大原則である。また、そのためには自分に関する情報、自分が行われようとしていることがらtこ関する情報の入手が保障されていることが大前提である。プライバシーだって保護されなければならない。一般住宅では個室はもちろん最近ではトイレまで複数設置され、前使用者の臭いまで間篤となり各種換気扇、消臭剤が売られている昨今である。また、様々な商品、サービスについては日常化されている品質比較の情報も極めて乏しい。
世間のうわさに頼る他ない。内申書が公開される世の中なのに、カルテの開示等とんでもないという状況。全く医療の現場は日常社会と別世界であり、異文化社会であることを理解していただきたい。
 このようなことを言うと「現場を知らない。」という言葉が返ってきそうである。しかし、この言葉は現在ある医療環境を所与のものとして、改善を拒否した言い方ではないだろうか。現状で良しとするのであれば確かに「患者の権利」等不要である。
 「法律家は悪しき隣人」と言われる。法的知識を撮りかざし社会常識に欠ける傾向があるから言われるのであろう。同様に、ドクターも、一般的な成育歴(偏差値教育で)、人間関係(研究熱心であれば帽広い人間関係が持ちにくい)からすると下手をすればタコ壷的世間観に陥りがちであり注意が必要である。
 「そんなこと言ったって、患者さんは不満を言わないよ、逆に感謝してくれる人の方がはるかに多い」という言葉も聞こえてきそうである。これはものごとの裏表を理解していないと言うべきではないか。また、「いろいろ問題はあるだろうけれど、愚者のために現在の状況のなかで一所懸命やっているんだ」という言葉も聞こえてきそうだ。それなら「だから?」と問いかけたい。「多少は我慢して下さい。」となるのだろうか。しかし、自分がその身になったらどうする。「自分は、事情がわかっているから無理はいいません。」それでいいのだろうか。
 では、厳しい医療環境の閉塞的な現状で、患者の立場に立った医療をどうするか。超人的な頑張りでは本質的な改善にはならないだろう。私は、次に述べるように「患者の権利」が制度改善の力になると考えている。

2.患者の権利法の内容
 私は、患者の権利法をつくる会の各県世話人の一人をつとめさせていただいているが、このつくる会が目指している患者の権利法の概略は次の通りである(詳細はパンフを参照されたい)。これを読まれる方はどうか自分を中心に、患者の立場になって考えてみてほしい。
基本的には、
・自己決定権 自己が受ける検査、治療について十分な情報を与えられた上で自分が決定する権利
・知る権利 自己決定を正しくするために医療に関する情報を受ける権利
・最善の医療を受ける権利
・平等な医療を受ける権利収入、社会的地位、ある病気にかかっていることで差別されない権利
 さらに具体的には、
・説明、報告を受ける権利
・医療機関を選択する権利
・転院の自由、入退院を強制されない権利
・セカンドオピニオンを求める権利 治療、検査等について別の医師から意見を開くことができる権利
・カルテの閲覧権等と言った権利である。
 先日地元のテレビ番組でこれについて話す機会があった。番組の出演者であるアナウンサー、落語家、指圧師の方々は、これを聞いて「当たり前のことですよね。」の一言。これが一般人の素直な感想であろう。
 この患者の権利は、法的に見れば憲法に保障された基本的人権の医療の場面における具体化、の一言に尽きる。

3.患者の権利で医療紛争の防止を
 医療過誤、医療事故等の用語について次のように整理できるであろう。
 「医療事故」=医療行為を原因としてなんらかの有害な結果が生じた場合。
 「医療過誤」=医療事故のうち医療従事者に費任が認められる場合。
 「医療紛争」=事故か否か、責任の有無は問わず当事者間に紛争が生じている場合。
 このうち、医療紛争については、その原因は、患者と医療従事者との間の人間関係にあることが多い。
 患者本人あるいは家族に不満・不安を持たせる不親切な対応や、検査・治療の際または事後に誤解を与えるような対応があった場合に起こりがちである。しかし、このような事態は、患者の権利が守られれば相当程度防げるものと考えられる。
 例えば、治療を家族らにも公開する、カルテも要求があればいつでも開示する、これが行われるだけでも無用な紛争を相当程度なくすことができるのではないだろうか。これに対して、カルテは医師の手控えであり患者に見られることを想定して書いていない等と反論されることがある。しかし、初めから見られることを前提に記載すれば足りるのである。また、患者に知らせない方がよい情報が記載できなくなるとの反論も見られる。しかし、そのような情報があることは予想出来るのであり、それでも本人が希望する場合には開示せざるを得ないのではないだろうか。(ガン告知の間産と重なる面もあるが、それは後述する。)もちろん、疑問を抱かせないようにカルテを日本語できちんと青くことは当然である。
 また、患者に対する情報提供を十分行うこと。これは文献も示して行うべきであろう。先日地元新聞社主催の「インフォームド・コンセント」のシンポジウムに出席した際、シンポジストの公立病院院長は、文献を示すとほとんどの患者は誤解をするから医師からの口頭の説明のみを行い文献による説明はしないと明言された。後に私が会場から、医療情報の情報源が少ないから患者に病院の図書室の利用を認めたらどうか、と質問したが、もちろん誤解のおそれがあるからと拒否された。しかし、医師の口を通じた情報のみ、ということは言わば管理された情報であり、それに基づく判断は医師にコントロールされたコントロールド・コンセントである。この医師は「インフォームド・コンセントではなく、我々はインフォームド・コミュニケーション・コンセントを目指している」と報告していたが、全くインフォームド・コンセントの心が理解されていない。
 そして、診療中にはよくしゃべることである。積橿的に疑問を引き出す話し方、説明の工夫も必要である。
 また、もちろん、どんどん後医を紹介しセカンド・オピニオンを開く機会を保証すべきである。

4.いろいろの疑問について
 このように述べてきたが、医療従事者からは様々な疑問が出されるであろう。医療制度の現状からすれば抵抗は大きいことは当然予想される。しかし、現状を前提とする議論でいいのだろうか。現状に間邁があるから、「患者の権利宣言」「医療事故110番」「患者の権利法」の運動が湧き起こってきているのである。
 94年の9月に宮山で開催した「患者の権利法を考える」シンポで、あるシンポジストは、「厚生省は医療制度の改悪を棟会あればと狙っている。このような情勢のもとで患者の権利法制定を主張すれば、結局厚生省の役人に医ノ唐制度改悪の手段に利用されることは目に見えており、医師と患者は信頼関係でいいじゃないか」と主張された。しかし、国民の多数の理解なしでは制度改悪の企みは防げないのではないか。患者の権利を医療制度改善のカにしなければならない。

5.ガンの告知について
 先日医師主催の二つのシンポに出て感じたことであるが、ガン告知について議論が整理されていないように思われる。
 われわれ法律家から見れば、ガン告知の問題は、まず本人がそれを要求している場合とそうでない場合を分けて議論することが当然求められると考える。ところがこれが全く意識されないで議論が進められていて驚いた。
 議論の重点は、患者本人ではなくその家族または医療従事者に置かれている。すなわち、「告知は家族に対して行う。西欧のように宗教的背景のない日本では、告知された本人の清和面のケアの体制が不十分であるから家族の同意がなければ本人に対しては告知は行わない。したがって、告知を進めるにはそのような体制、環境の整備が求められる」というものである。
 結婚でも、就職でも人生の一大事の決定は本人自身が行うものである。もちろんこれらの問題でも本人の意思が完全に自由であることはありえず、社会的な環境・条件等が影響を与えることはあるとしても、やはり理念としては本人の意思は絶対だ。ところが、ガン告知の閉塞では、そもそも本人の意思は問題とされていない。異常な事態である。
 私は、この議論を開いていて「保身医療」という言葉を思い出した。医療従事者と家族が、本人の意思をさておいて、受けとめる体制がないと言って各自保身を考えているのである。確かに悩みは多いであろうが本人の意思を出発点とした議論が行われるべきであろう。
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