く特集〉介謙保障のあり方を考える 介護者の立場から介護問題を考える 橋 本 千佳子 |
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金沢市に住んでいる橋本です。夫の両親は、父86歳、母84歳ですが、現在、それぞれ別々の病院に入院しています。 母は4年前に脳梗塞になり、4カ月聞入院し、右手足聴痺の状態で退院することになりました。それ以前、私たち家族は、隣同士、スープの冷めない距離で、別々に生活していました。母は長い間茶道の教師として、趣味と実益を兼ね、生き生きと生活し、父は宗教家でしたので、現職を離れた後、いろいろなところで講演したり、原稿を書いたりしながら、2人仲良く生活していました。母は、稽古中突然、脳梗塞のため麻痺になりました。私は仕事を持っており、日中、留守にしていたので、翌朝までそうした状態を知りませんでした。今にして思えば、父もそのような母の状態を判断できなかったようです。 母が退院するにあたり、今後の両親の生活をどうするかについて、4人いる夫の兄弟と相談しました。まず、金沢にいる弟に相談したところ、「K病院に預けたらよい」といいました。東京にいる2人の弟は、「遠いところにいるので兄貴にまかす」ということでした。夫は、兄弟にたいして「無費任な」ということで口論になったことを覚えています。 私は、経営者団体の事務局で、約10年働いてきました。その4月から事務局貝が増員され、基本給も大幅にアップし、さらに主任手当などもつき、書こんでいた矢先のことでした。随分悩みましたが、母が退院する2カ月前に退職を決意しました。なぜかと言いますと、私は男ばかりの長男の嫁ですから、立派な嫁として今頑張らなければ「嫁という名がすたる」というほどオーバーではないが、やはり年齢的にそうした教育を親から受けたので、両親の現状を考えるとそれが一番いい方法かな、ということでやめたわけです。仕事をやめるにあたり、身内からも夫からも、ストップがかかりませんでした。むしろ皆の中でほっと一安心という雰囲気がありました。 在宅で介護するにあたって、病院のリハビリの方々からアドバイスを受けました。私たち介護する方も、それから母の立場からも、ケア付きの住宅に建て替えなければ、リハビリに本格的に取り組めないと思いました。そこで、父に相談したところ、猛反対にあいました。さらに、2人の弟からも長年育った家の思い出があるとか、親の蓄えを兄貴が勝手に使うのではないかとか、いろいろ反対意見が出ました。そのときの状態を思いますと、多分、父はたくさんの書物や、母の介助のことなど、体力的に限界だったのでしょう。今から思えば無理もないことでしたが、私たちは母の立場をまず考えるとベストな方法だと思い、意を決して建て替えることにしました。 2階建で45年ほどたった家でしたので、実際、それを改造してどんなことになるか、経済的なこともあったので大工さんに見てもらいました。戦後の余り丈夫な家ではないので、むしろ壊した方が安くなると言われ、平屋建てで必要最小限の寝室と居間、そして小さい台所と、トイレ、洗面所、風呂場を建て直しました。 また、いずれ車椅子に母が乗れるようにということで全部段差なしのワンルームにしました。床は全部板張りにし、それも二重張りの厚いのにし、手すりはいつでもつけられるように壁の方も板をちゃんと中に入れてもらって、いつでもどこでもつながれるような、そういう設計にしてもらいました。 それから、寝室はベッドを入れまして、8畳間をベッドだけの部屋にし、その隅にカーテンで仕切るように洋式トイレ、洗面所には、おむつ洗いできるように洗面台の横に一つつけてもらいました。浴室は全部段差なしで、真ん中に溝を切って、部屋の単に水が流れ込まないような設計にし、手すりを入口から浴槽の中までつけました。 同居する中で、父の体の状態が私たちの方から見えるようになりました。前立腺を手術し、それから軽い痴呆の状態も見られるようになりました。夕方になると、母を相手に、絶えず歌を歌うように、私たちの批判をするのです。特に私が財産を全部横領するのではないかというのです。そんな財産はないのですが、使ってしまうというような不安感があったのでしょう。それを1時間くらい続けます。終わった頃を見計らって、私が夕食を案内すると、にっこりと合掌したり、ということがありました。その辺が「おかしいな」と思いながら、最初は、私も血流が逆流して、ちょっと惑り狂ったこともありましたが、何かこれはおかしいと思い、そのような壊し方に変えていきました。また、近所の商店街へ特別用事がなくても出かけ、私の悪口を言って歩いたらしいのです。耳に入らなくてもいいのですが、後からいろいろ入ってきました。でも、私と親しい人には不思議とほめちぎっていたので、案外使い分けていたのかもしれません。 その父が、同居して2年半たったある朝突然、脳梗塞になりました。言語障害と喉にマヒがでて、口にものを入れることができなくなりました。そして入院と同時に痴呆が本格的になりました。入院中、夜半に俳掴し、看護婦さんが仕事にならないということで、夫と1日交代で付添いました。日中短時間、遠縁の方にお願いしてあったものの、夕方から通うのも大変辛く、早く口から食事がとれるようにと祈るような思いでした。1カ月半後にやっと口から食物がとれるようになり、退院しました。 父と母の2人の介護はとても大変でしたので、翌年、J病院のソーシャルケースワーカーの紹介で、父はT病院へ入院することになりました。 それまで、お正月を挟んでの約12日間、昼は近くのK病院で付添いさんをつけ、夜は自宅へ連れて帰っていました。2人分の費用では大変になるので、これは必要にかられてです。夜食事の後に迎えにいき、また朝食の前に病院へという生活は、10日間ほどでしたが、それは大変すさまじいことでした。 また、何を要求しているのか、何を求めているのかということが、言語がないのでわからないものですから、結局はがゆいのでしょうか、何度かひじてつを胸にくらいました。幸い私は、こう、厚くできていますので、大したことはありませんでした。骨だけの人だと大変だな、骨折するのではないかと思うようなカがあるのです。そして、一緒に転んだり、これは夜中にやっているのですが、あざをつくったり、大変必死な思いでした。そのときから私は、喘息の症状がでてきました。そういう体質はもともとあったのですが、50歳を境に急にでてきたのは、やはり環境の変化かなと思っています。 父がT病院へ入院後7カ月ほどして、母の状態が思わしくなくなり、現在、母はJ病院に入院しています。父と母は仰の良い夫婦でしたから、横に父の姿がなくなったので、私たちだけの介護では、とても考えられないような寂しさがあったのではないかと思います。食事もだんだん思わしくなくなり、起立性低血庄になりました。父が入院しているT病院へは1週間に1回、顔を見に通っていますが、母は食事には30分から40分かかるものですから、看護婦さんではなかなかそこまでしていただけませんし、1食だけでもと思い、毎日介添えに通いました。でも、4カ月くらい前から食べる意欲がなくなり、私も疲れてきたので、2日に1回になっています。 このように、両親の介護の状態をざっと詰ましたが、今までの状況からいろいろと家族介護の限界ということを感じています。 まず、介護のできる条件がどれだけそろっているかということです。1つは介護者がいるかということです。隣近所、それから母のお茶友達の年配の方、女性のお年寄りの方ほど私にたいして、大変えらいですね、立派ですね、お嫁さんのかがみですねと言われます。私はミラーやミラーポールじゃないのですから、とにかく私のようなやさしい嫁が、娘がどれだけいるかということです。次は住宅についてです。同居できるほどのスペースがあるかどうか、またケア付きにできるかどうかということです。 もう1つは、介護者が仕事をやめて生計が成り立つかどうかという経済的な問題です。 2年はどはどうにか、父の年金からも少し生活費をもらい、やっていけましたが、その2年後、夫の退職により年金暮らしになりました。2人の入院費が現在15万円かかります。それで、残りを雑費と家の維持費としますと、私どもには少しも回ってこなくなりました。介護する側としては、夫の車で2人一緒に行動していますから、精神的な負担は楽になったのですが、今度は経済的な負担がでてきました。 さらに、介護によって生じる人間関係の軋轢にどこまで耐えられるかということです。私は頑張る嫁さん、立派な嫁さんと言われたけれども、2年目から恨み節の嫁になりました。夫にたいして大変ぐちるようになりました。また、母が入院したとき、食事の介助をしながら、「頑張って退院しましょう、たくさん食べて」と励ましても、頑として首を縦には振りませんでした。父のいない家に帰っても寂しいということ、私たちに大変気を使い、辛い思いをしなければならないということがはっきりわかりました。それで、私も無理に「帰りましょうね」と言わなくなりました。 義務感、正義感だけではなかなか乗り切れません。それこそ半年、1年ぐらいの短期間でしたら、みんなで頑張って乗り切れますが、長期になればなるほど、人間関係が壊れていくということを感じました。尊敬していた親の状態にだんだん幻滅を感じるようになり、また、うける方も遠慮とか屈辱的な思いもあると思います。元気なとき、父に「千住子さんは寮の舎監みたいですね」と言われたことがあります。絶えず腰に手をあてて命令しているというのです。私はそんなつもりは全然なかったのですが、そのように受け取られていたということです。 それからもう1つ、私の場合は、退院後も訪問着護を受けたり、病院や地元のいろいろな方のつながりの中でアドバイスを受け、福祉サービスを可能なかぎり受けるようにしてきました。デイサービスも週に1回のところを、申し込んで2回受けたり、それからショートステイを利用し、リフレッシュ休暇をとらせていただきました。愚痴ったり励まされたりする友人もたくさんいたので、乗り切れてきたかなと思います。健康なときから、介護せざるを得ない状態になる前に、身近なところで福祉サービス等を絶えず知らされていれば、随分と不安も軽くなると思います。「コロリ」といきたいとか、年のいくのは怖いとかということも、半減するのでないかと思います。 介護手当についてですが、市からの介護手当5,000円と県からの介護手当8,000円を、4カ月に1回受けていました。入院した場合には介護手当は支給されないのですが、うっかりしていて、民生委員の方に報告しなかったのです。両親の生存中は支給されると思っていました。介護手当が支給されて3日ほど後に、「入院しているのか」と民生委員の方と近くの善隣飴の方からお電話をいただきました。私にとっては大変いやな思いをしたのです。県にはすぐに電話を入れました。年寄りの場合、病院へ入ったり出たりがしょっちゅうですから、いつ入院という状態になるかわかりません。私は最初から金沢市が振込制度にしてくれたらいいと思っていました。もっとたくさんいただきたいのですけれども、ついつい金額が軽いものですから、どうしてもルーズなことになったかな、と思っています。 夫といつも話し合いますのは、「どのような老後を迎えたいか」ということです。「人間らしく老いたいね」と、行き着くところはそういうことです。はたして、家族の愛情だけで、ねたきりを介護することができるかというと、私と夫との会話では原則的には絶対無理だということになります。やはり、プロのホームヘルパーさんとか医療スタッフに診てもらえ、状態によっては24時間診てもらえるということです。家族は原則的に精神的な支えであればそれでいいんじゃないかな、ということを話し合っています。 つたない報告でしたけれども、ありがとう ございました。 |
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