人権としての社会保障と介護保障 井 上 英 夫 |
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はじめに 敗戦50年の昨年は、阪神・淡路大震災、オウム事件、沖縄基地間選、さらにはエイズ、住尋問題と日本の国づくりが鋭く問われた年であった。 社会保障・社会福祉の分野でも、7月には、社会保障制度審議会の「社会保障体制の再構築」と題された勧告が出され、公的介凄保険の創設が提起された。健やかで安心できる生活の保障を、みんなのために、みんなでつくり、みんなで支えていくことが社会保障の理念とされている。 こうした、国や自治体の責任抜きの「社会連帯」の理念で本当に深刻な介護問題を解決し、国民の不安を解消できるのであろうか。 「介護保険」をめぐる動きは以下のようにめまぐるしく、厚生省は、6月10日の老人保健福祉審議会の大筋了承の答申をうけて国会提出をおし進めようとしているのが現状である。 *94.12 高齢者介護・自立支援システム研究会「新たな高齢者介護システムの構築を目指して」 *95.7.4 社会保障制度審議会「社会保障体制の再構築(勧告)一安心して暮らせる21世紀の社会目指して」 *7.26 老人保健福祉審議会第一次報告「新たな高齢者介護システムの確立について」 *96.1.31同第二次報告「新たな高齢者介護制度について」 *4.22 同最終報告「高齢者介護保険制度の 創設について」 *5.15 厚生省高齢者介護対策本部「介護保険制度試案」 *5・30 同「介護保険制度修正(最終)試案」 *6.6 厚生大臣 菅直人「介護保険制度案大綱」を老人保健福祉審議会へ諮問 *6.10 老人保健福祉審議会答申 大分骨格ははっきりしてきたが、依然として一体どんな介護サービスが受けられるのか肝心の点は明らかにされず、国民の不安は高まるばかりである。厚生省は、本特集でも明らかになっている各方面の声を真撃に聞くべきであろう。ここでは、人権としての社会保障の観点から政府の介護保険構想(以下「介護保険」)を6月6日の「介護保険制度案大綱」を中心に検討してみたい。 なお、筆者は公的介護保険の導入に必ずしも反対するものではない。しかし、導入の条件は、@徹底した情報の公開のもとで「介護保険」導入の是非を論じることとA人権としての社会保障の諸原則を満たしていることである。 最終的には「公的」の言葉さえ抜け落ちたような「介護保険」の中身では、老人保健福祉計画や新ゴールドプランの実現に精力を注ぐほうが「よりまし」であろう。 1憲法第25条と社会保障・社会福祉の権利 まず、憲法第25条が、1項で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と国民の権利を、2項で、「囲は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と国の義務を規定した事は、社会保障・社会福祉を人権として位置づけたものであり、憲法の先進性を表すものであったことを確認しておきたい。 敗戦から5年たった1950年、社会保障制度審議会は、憲法第25条について、「国民には生存権があり、国家には生活保障の義務があるという意である。これはわが囲も世界の最も新しい民主主義の理念に立つことであって、これにより、旧憲法に比べて国家の責任は著しく重くなったといわねばならぬ」といいきり、総合的社会保障制度の確立を政府に勧告したのである(「社会保障制度に関する勧告」)。 この生存権保障の理念は、不十分ではあるが、戦後の社会保障・社会福祉制度発展の基盤としての役割をはたしてきた。 ところが、80年代以降のいわゆる臨調・行革下の社会保障「再編」は、老人保健法による老人医療の有料化、差別医療の導入を突破口に、国民健康保険料の引き上げ、生活保護の引き締め「適正化」、社会福祉の負担の増大等々、次々に社会保障・社会福祉制度を後退させ、生存権理念を空洞化させてきた。そして、先の95年勧告は、「自立自助」や「相互援助」を「安心」や「みんなのために、みんなでつくり、みんなで支える」というソフトな言葉でいいかえ、「50年勧告」の掲げた生存権理念の中核である社会保障制度(社会福祉や医療保障を含む)による国民の生活保障にたいする国や自治体の責任を実質的には放棄したのである。 自分ではどうにもできないから、お互いで助け合っても限界があるから、金も人もモノも、強大な力ももっている囲(自治体)が保障する。それでこそ国民は本当に安心できるのではないだろうか。 他方で、95年勧告等も戦後50年の経済的、社会的変化そして国民の意識の変化を反映し、人間の尊厳そして自己決定、選択の自由、さらには原則の一つとして「権利性」も認めざるをえなかったのである。たとえば子供を生む事、育てる事は個人の選択の自由の問題であり、社会はこれを支援すべきであるという考え方や医療における患者のインフォームトコンセントや自己決定の権利、尊厳死とターミナルケアの必要性などは否定できないものとなっている。 こうした歴史は、憲法の人権保障及び第25条の生存権保障が、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(第97条)であり、これらの変化が、日本国内の国民の運動、諸要求と国際的な人権としての社会保障のための運動による人々の「不断の努力」(憲法第12条)の反映であることを示している。 2 人権としての社会保障の理念と原則 人権と呼ぶにふさわしい社会保障とはなにか。現代の社会保障は、働く人々を中心とした闘いによって、豊かな社会保障の理念と原則をかちとってきた(詳しくは、小川政亮編著「人権としての社会保障原則」ミネルヴァ書房、井上他編著「高齢者医療保障」労働旬報社を参照)。 まず、「介護保険」構想をこれらの理念や原則に照らして検討してみよう。「安心」、「連帯」、「権利」、「選択」等々、いかに口当たりのよいソフトな言葉を用いても、その中身が人権保障の名に催しないことがあきらかになる。介護される人や介護する人が人間の尊厳をもって(すなわち人間らしく)暮らすための制度であるよりも、一部官僚や「富裕者」、保険会社、シルバー産業や福祉産業の儲けのための市場づくりに資する政策であることがはっきりするであろう。 また、これら諸原則は、政策批判に役立つだけでなく、人権保障の名にふさわしい介護保障をつくりあげていくための指針となるものである。 (1)人間の尊厳と自己決定・選択の自由 日本国憲法第25条が生存権理念を掲げ、社会保障の権利を規定してから既に50年が経つ。さきにも述べたように、この間の経済、社会、そして人々の意識の変化は大きなものがある。また、日本の社会保障の制度もそれなりに整備されてきたが、国際的にみれば社会保障はさらに内容豊かに発展している。この点、日本国憲法と日本の社会保障制度は、国際的に遅れをとってしまっているといってよい。 その意味で、現代にふさわしく生存権理念をいっそう発展させ、人間の尊厳に催する社会保障を打ち立てることが求められている。人間の尊厳の理念は、憲法前文や第13条、24条に唱われているが、これまで日本の社会ではどちらかというと軽視されてきたと思う。しかし、第二次大戦とりわけナチスドイツのユダヤ政策等の非人間的かつ残虐な行為への徹底した反省のもとに出発した戦後世界は、なにより人間の尊厳の確立を課題としたのである。 人間の尊厳とは、つきつめれば、自分の生き方、運命を自分で決めることができるということではないだろうか。そして、自分で決めるためには、多様な選択肢が用意され、選択の自由がなければならない。社会保障や社会福祉の制度は、この選択肢を用意するための仕組み=システムといってよい。 最近の、患者のインフォームド・コンセント、ガン告知、そして尊厳死問題等の根底にあるのは、自分の生命、健康に関しては本人が主人公であり、自分で決めるべきだという自己決定権尊重の思想である。そして人間の尊厳=自己決定は、死の瞬間や「終末期」、「末期」にのみ尊重されればよいのではなく、生まれてから死ぬまで生涯にわたって、日常的な生活のあれこれの場面で保障されなければならないであろう。 日本の社会福祉の現状では、施設の生活は、多くの場合プライバシーもなく管理された自 己否定の生活を強いられる。できれば入らずにすましたい施設である。そもそも、数が少なく施設に入りたくても入れない。こうして在宅を余儀なくされる。しかし、在宅をしようにも、24時間ケア体制にはほど遠く、多くの場合、介護は嫁や妻、女性が人生を犠牲にすることによって担われている。 社会福祉施策が貧困で選択の余地のない状況では、強制された決定はあっても、真の自由意思に基づく自己決定はできないわけである。入りたい施設があり、入れる。家で暮らしたければ、その体制もある。その上で家で暮らすか、施設で暮らすか自分で決められる。選択できる。こうしてこそ自己決定も意味をもつ(詳しくは、井上「高齢者の人権が生きる地域づくり」自治体研究社、参照)。 (2)人権としての社会保障の原則と「介護保険」 さらに人間の尊厳や自己決定・選択の自由を具体化すると社会保障の諸原則は以下の通りである。ここでは、政府の「介護保険」構想と対比しながらみてみよう。 @権利性の原則 社会保障や社会福祉は、お恵みやお情けでなく人々の権利として保障されなければならない。社会保障を受けられない人は、不服申立てや審査請求、さらには裁判により自分の権利を主張し、現実に自らのものとすることが認められている。 また、国の最高規範である憲法で、人権として認められているということは、行政はもちろん国会のつくる法律をもってしても社会保障の権利を侵害したり、奪ったりしてはならないということになる。 政府の「介護保険」では、介護は保険料と介護を受ける際の利用者負担を払える人にのみ権利として保障されることになる。また、介護の必要性を認定するのは、保険者である。具体的には、専門家による「要介護認定審査会」において、国の定めた公平かつ客観的な基準に従い専門家が合議によって審査した結果に基づき保険者が決定するものとされている。多くの人が申請しても認められないという事態が生じるであろう。未納者には給付の差し止め、過去に未納がある場合は給付率を引き下げるなど権利抑制措置については具体的である。 認定に対する、不服申立ての制度やオンプズマン制度も考えているようであるが、審査組織の民主性や住民の参加が保障されなければ権利保障の制度としては不十分である。現在の社会保険の審査請求等の実態は、権利救済制度としてはあまりに貧困である。 (勤主体の包括性 「誰でも」社会保障の権利が保障されるということである。貧困者でも、労働者でも、自営業者、農民でも、高齢者でも、乳幼児でも、障害をもつ人ももたない人も、社会保障を必要とする人すべてが対象にされなければならない。「介護保険」では、当初の20歳から40歳以上の人に被保険者が限定された。65歳以上の者が第1号被保険者、40歳〜64歳までは第2号被保険者とされる。 65歳以上の要介護者及び要支援者(いわゆる虚弱老人)は原因を問わず介護保険の給付の対象になる。しかし、40歳〜64歳までの人については、老化に伴う介護が対象になり、それ以外は障害者福祉施策による介護サービスの対象とされる。 対象が非常に限定されたわけで、障害をもつ人は障害者プランに即した公費による介護サービスということになる。また被保険者とされても保険料を払えない人、給付の際の自己負担を払えない人は給付がされない可能性がある。 国民健康保険制度や国民年金制度の現状をみても滞納者や無保険者の増大は必至である。お金のない人すなわちそれだけ介護問題の深刻な人こそ給付が受けられなければならないのであるが。 (彰保障事由の包括性 「どんな事故や危険」にかんしても保障されるということである。貧困、失業、高齢、障害、死亡、病気、事故や子供の多いこと(多子)まで、「適用事故」とされる。 「介護保険」により給付される介護は、介護される人の必要とするすべての介護ではなくて、保険者が認定したものに限られる。また、医療や看護、家事援助サービス等は「介護」ではないということにもなりかねない。 C人間の尊厳に値する保障水準 社会保障の水準は「ぎりぎりの最低限生活」を保障すれば良いのでなく、人間の尊厳に催する水準=「健康で文化的」な水準でなければならない。とくに生命、健康という人間にとってもっとも大切なものを保障するための保健・医療については、「可能な限り最高水準の医療」の保障が求められている。 「介護保険」の保障水準は、24時間体制で、家事援助かち医療までのケアを保障し、しかも、介護を受ける人、家族の尊厳を傷つけないような中身でなければならないであろう。ところが、新聞社等の検討によれば、「介護保険」導入後、現在のヘルパー派遣制度等より派遣回数、水準が下がる可能性があると指摘されていたが(朝日96年2月1日付)、「大網」の段階に至っても具体的な保障水準が明らかでない。 なお、「大綱」によれば、在宅サービスは1999年度、施設サービスは2001年度から実施するとされている。結局3年以上待たされるわけであるが、さらに問題なのは、要介護者へのサービスが上記年度からすぐに受けられるわけではなく、2005年には60%、2010年でもようやく80%と仮定され、100%になるのはいつのことか解らない始末である。 「大綱」は、施行までの間に十分な施行期間をおくとするが、「はじめに介護保険ありき」ではなく、介護保険導入の是非こそ時間をかけて議論すべきであろう。 D実質的平等原則 「誰にも、等しく」保障されなければならない。皆保険というとき一応皆平等に保険に入っているが、過疎地や無医地区では都会と比べて受けられる医療の機会や中身に大きな差がある。また、介護を必要とする人に一律に同一のサービスの機会が保障されれば足りるわけではなく、重い人、軽い人を問わずその人が尊厳をもって生き得るために、必要に応じて必要なサービスが提供されなければならない。その意味で、機械的あるいは形式的に平等であればよいのではなく、実質的に他の住民と同等のサービスが保障されなければならない。 )「介護保険」では、自治体間、地域間格差さらには経済的負担能力による給付の格差は現在の医療保険以上に大きくなるであろう。「保険あって介護なし」の状態が心配されるわけである。さらに、「大網」のような貧弱な内容では、「保険もない、介護もない」ということになりかねない。 E負担に関する原則 負担というとき、税や保険料と利用者負担がある。基本的には、社会保障の費用は、国・自治体や企業が負担すべきである。北欧では、税金(特に自治体)からの公費保障で24時間のケア体制を築きあげている。また、住民の保険料支払いや利用時の自己負担はない。確かに、税負担は高い(所得の50〜60%)が税金に見合った給付が行われ、「安心」が保障されているから国民も高負担を支持している。 高齢社会のためにと導入された消費税はどこへいったかわからず、住専や米軍には惜しみなく税金を注ぎ込む。また、「大綱」の試算によれば、第1号被保険者については、99年月額500円であるが、2001年度には2400円に跳ね上がり、2010年度には36仰円となるケースが想定されている。保険料負担が大きいのは問題だが、むしろ保険料を払っても必要な「介護」も受けられそうもない。 さらに、1割の利用者負担をとられる。施設では食費は利用者負担となる。ただ、医療保険の高額療養費類似の制度(高額介護サービス費)をつくるとしているので、その金額および所得制限等の要件が大事な問題になるのであるが、中身は不明である。 税を財源とする公費による介護保障か、保険による「介護保険」がよいのか。もっと議論が必要である。仮に、保険による介護保障を考えるにしても、保険料の額は誰でも負担可能な範囲でなければならない。それでも負担できない人のために、しっかりした減免制度等が必要である。また、負担は給付の権利と切り離して考えられるべきである。給付は必要に応じて、負担は能力に応じて、この原則の確認が大事である。 このように考えると保険料だけでは運営が困難であるから大幅な国庫負担(国保の例を見れば少なくとも給付費用の3分の2)が必要になる。「大綱」では公費負担を2分の1としているが、これを国1/4、県、市町村それぞれ1/8で負担するとされているので、国の負担分が低すぎ結局自治体そして国民に負担がおしつけられることになる。 自治体の不安・反対論もこの点にあった訳で、保険運営の広域化、財政調整等の事業主体となる市町村と特別区支援方策を提起し説得に懸命であるが、肝心の国民負担の軽減の視点は欠落したままである。 また、日本の場合社会保障費用に対する企業負担が低すぎるが、最終報告では、両論併記という形で曖昧にされた。その後の「試案」では明記されたが、最終「試案」(5月30日)では削除され、「大綱」で再び復活という複雑な過程をたどっている。産業界の反対への配慮が強くうかがわれる。 「介護保険」にしても企業の社会的責任を果たすような保険料負担を導入すべきである。現行の被用者保険は保険料の折半主義を原則としているが、7割、10割の企業負担へと変える必要がある。また、介護労働からの解放は、新たな労働力と安心して働ける環境を生み出すのであるから、介護保障で大きな利益を受けるのは企業である。被用者のみでなく、その他の場合も介護に要する費用の相当部分を企業が負担すべきであろう。 次に利用者負担である。医療保険(定率−1割、3割)や老人医療(定額一入院1日700円)における一部負担が医療へのアクセスに大きな障害となっていることを考えれば、「介護保険」が考えているような定率1割の利用者負担ということになれば、サービス利用を差し控える人が増大するであろう。 誰でも利用者負担なしにサービスが受けられなければならない。高齢者が医療費の負担を心配して病院から遠ざかるように、負担がない方がサービスがうけやすいからである。 また、負担している人と負担をしない人がでるときは、その間の差別意識をも引き起こし、負担していない人は肩身の狭い想いをしなければならない。 やむをえず負担を求めるときは、サービスを受ける妨げにならないような低額の負担に止めるべきである。(彰情報公開自己決定の大前提に、自己に関する情報および社会保障に関する情報が正しく提供されている必要がある。 この点が、「介護保険」の議論の最大の問題点といってもよい。多くの人が介護保険について聞いたことはあってもほとんど内容は知らないというのが実情である(朝日の調査では3月の時点で女性の半分が「介護保険」について知らないと答えている−3月10日付)。知らない国民に問題があるのではなくて、知らさない政府、厚生省に問題があるといわざるを得ない。 G参加 社会保障の政策の立案、決定、実施のすべて、そして自治体から国のすべての段階にわたって、社会保障を必要とし、保障を受けている人が参加できなければならない。情報を得て、参加した上で自己決定をする。 国民からみれば、「介護保険」構想も突然浮上し、十分な参加と議論もないままに強引に制度化されようとしている。「介護保険」を主として審議している老人保健福祉審議会には、介護される人、その家族の代表はほとんどはいっていない。 H民主的管理運営 社会保障の制度は民主的に管理され、運営されなければならない。とくに受ける人自身の参加が不可欠である。現在の自治体や国の管理する国民健康保険・政府管掌健保や国民年金はいずれも民主的運営になっていない。 「介護保険」を民主的に運営できる仕組み、介護される本人と家族、介護労働者等の管理運営への参加が保障されなければならない。 事業主体は市町村とされるわけであるが、市町村の保険運営の支援組織の「連合会」、介護の認定のための「要介護認定審査会」さらには各種保険の運営が民主的に行われるためのシステムに関する提言はない。 とくに、市町村は、固から過大な負担を押しつけられている国保の二の舞になることを恐れている。給付主体は市町村にするにし.ても、財政面を始めとした市町村の自治とその前提としての住民自治が確立されなければならない。 3 安心できる社会の実現に向けて 以上のような諸原則を備えた社会保障、そして介護保障が実現できれば、我々は、老いても、障害や病気をもっても、一人暮らしで寝たきりになっても、安JL、して生き生き暮らせるであろう。こうした社会をぜいたくでも、夢でもなく、あたりまえのこととして実現しようとしているのが、スウェーデンやデンマークである。 そこでは、官僚的で選択ができない、自由がない、そして恩恵的で権利性が保障されないと欠陥が指摘されている日本でいう措置制度(住民の申請、行政の決定行為によって公費によるサービスを保障する制度)が、「施設」、在宅両面での24時間「介護」を保障しているのである。 もちろんいろいろな問題があり、自己決定や選択の自由が100%実現できているわけではないが、「施設」でも、家でも、そこに暮らす人、働く人々のに笑顔が満ち満ちていることが人間の尊厳が尊重され、「安心」が保障されていることを物語っている。 「介護保険」のみが介護間邁解決の唯一の途ではないことは、このような北欧の実例が雄弁に物語っているところである。 また、昨年介護保険を導入したドイツの例も、保険制度の様々な問題点が浮上してきている。既に失敗だったとの評価もあるところである。 わが国の介護保障をめぐる議論も、これら先例に学ぶべきであろう。とりわけ、北欧の表面的な言葉や技術だけでなく、理念や原則を具体的な施策に生かす姿勢、そのための試行錯誤を重ねる柔軟かつ合理的思考と実践力こそ手本とすべきである。 最後に、「試案」及び「大綱」段階で、規制媛和により多様な民間事業者等の参入を促すことにより、介護関係の市場や雇用の拡大につながる制度とすること、さらには、公的保険を上回るニーズに応えるために民間保険の積極的な活用が可能となることに努めることが、介護保険制度の基本的考え方の一つとして明記されたことを指摘しておきたい。ここに介護保険導入の真のねらいがあることが はっきりしたわけである。介護保険の内容が、結局のところ国民に「安心」をもたらすよりも「不安」を増大させる程度の貧弱な水準(つまり企業の進出の邪魔にならない程度)になりそうな理由が理解できるのである。 〈参考文献〉 文中引用のもののほか、岡本祐三監修公的介護保険のすべて一朝日カルチャーセンター、95年7月。 里見賢治他「公的介護保険に異議あり」ミネルヴァ書房、96年3月。 相沢与一r社会保障の保険主義化と「公的介護保険」」あけび書房、96年5月。 「老後保障最新情報資料集13」あけび書房、96年、6月。 (金沢大学法学部教授) |
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