ー<特集>介護保障と介護保険 病院職員にみる介護意識 黒 岡 有 子 |
|
---|---|
はじめに 日本では老人虐待・介護心中・介護殺人・介護離婚といわれる悲劇が、絶え間無く発生しています。連合の「要介護者を抱える家族の実態」に関する調査(94年)によれば、「要介護者に対し憎しみを感じたことがある」と回答した人が約3分の1を占めています。「要介護者に対して虐待をしたことがある」と答えた人は半数にのぼっています。この事からも要介護者を抱える家族の負担が極めて重くなっていることがうかがえます。そこで城北病院の全職員を対象として、介護はどうあるべきかの意識調査を行ってみました。対象は360人で、そのうち203名から回答がよせられました(回収率56.4%)。調査は1996年11月1日から11月15日の期間に実施しました。 T.アンケート結果から 1.介護する立場の意見 まず介護する立場をみると、「親が介護が必要になったとき、どこでどのように過ごさせたいですか」という問いでは、全体の64%の人が在宅を選んでいます。「住み慣れた家で家族に囲まれて過ごさせてあげたい」「家が精神的に落ち着くから」という理由が多くみられます。その中の18%の人が「家族だけで看る」と答えています。 特に20代には「大切な家族のため」「自分が中心になって介護する」「恩返ししたい」という声がみられます。そのためには「仕事を辞めざるをえない」、「休職して再就職するつもり」という人もみられます。職種別では、看護婦、検査技師(女性)に在宅で自分が介護すると答える人が多くみられました。病院・施設を選んだ人は26%でした。 2.介護される立場になった場合 自分が介護される立場になったときは、在宅での生活を選択した人が52%、施設・病院を選択した人は34%みられます。 ここで特徴的なことは、「親は自宅で看るが、自分は病院・施設で過ごす」と答えている人が何人もいることです。本音は家で過ごしたいけれど、家族に迷惑がかかるから、施設・病院で「過ごさざるをえない」「覚悟はできている」というのです。その他、「寝たきりになる前に自殺する」と答えている人も何人かみられ、介護される立場では、家族に迷惑をかけるのは申し訳ない、寝たきりは辛いと思っていることがわかります。 3.実際に介護したことがある人 「介護休暇があったらよかった」という声が沢山ありました。 「職場に気兼ねなく休めたのに」「かなり状態が悪くなったときに、付き添いたかった」「休職して介護したので給料がなかった」などの感想が述べられています。 現実の制度等への不満も出されました。「病院・施設のサービスや公的サービスがもっと整っていたらよかった」「付添婦の費用1日1万円は、あまりにも高かった」「近くに施設がなかった」「介護者への支援がほしい」「家族介護には限界がある」などです。 4.介護できなかった人 「嫁として義母を看なくてはならないと思ったが、仕事を休めない状況にあった」「子供が小さかった」「義父が亡くなったいまでも、看れなかった自分に罪悪感を感じる」「親を介護できなくて、専門職といえるのだろうか」という言葉が表しているように、看たくても看れなかった人がいます。 「親が倒れたとき仕事をどうしますか」という質問では、ほとんどの人が「続ける」と答えています。「経済的に大変」「医療費・介護費用を作るため」「自分の人生も大切にしたい」「再就職の道はない」などの理由が並んでいます。このように現実の社会では、親が倒れたときは看たくても看れない、仕事を辞められないという女性が多いのです。 U.考 察 以上アンケートをもとに介護する立場、介護きれる立場、介護をした人、介護できなかった人の立場をみてきました。その結果、介護される人は、肩身の狭い思いをし、介護している人は、介護に縛りつけられ、経済的負担も大きく、介護できなかった人は罪悪感をもち、親戚や周囲の人からは“冷たい人間”という目でみられ、どの立場の人も幸せではないということがわかりました。それは、この問題の根底に、“親を看なければならないという扶養義務に、国民が縛られている”ということと“公的福祉サービスが不十分である”ということがあることに気付きました。 「介護問題はどうあるべきでしょうか」という質問に対して、職員の96%が「社会全体で支えるべき」と答えています。ところが「親の介護は子がすべきでしょうか」という質問では「いいえ」と答えている人が30%に減り、「わからない」を含めると63%になります。「社会全体で支えるべき」といいながら、6割もの人が親の介護は子がすべきなのではないかという“矛盾した回答”をしています。 そして実際に介護問題を目の当たりにした時には、「長男の嫁として義父・義母を看なければならなかった」「いまでも看れなかった自分に罪悪感を感じる」という言葉にみられるように、家族の介護をした人も、できなかった人も、扶養義務にとらわれ苦しんでいることがわかります。 この扶養義務に私たちが縛られていることが、仕事の中にも、弊害として表れていると思います。たとえば、もし職員が「家で家族に介護されるのが1番幸せ」「子は親の介護をしなければならない」という目で患者さんや家族を見ると、「子供なのに面会に来ない」「家で看れないなんて、冷たい家族だ」と家族を評価してしまう危険性はありはしないでしょうか。 老人保健施設のワーカーか私に教えてくれた言葉があります。それは「現場スタッフが家族をよい家族・悪い家族と分けると、よいケアはできない。家族の立場に立って歩めるスタッフは少ない」という言葉です。 次に、公的サービスが不十分であることについて考えてみます。日本の社会保障制度は、扶養義務を前提としているものが多くあります。そして親族扶養・家族との同居を美徳とすることで、国は国家責任を回避してきたという歴史があります。これは“介護は家族が行い、できないところを国が代行する、費用は本人・家族が負担する”という考え方です。 しかし私が日々かかわる患者さんには、介護者のいない人、家族がいても在宅介護は無理という人が多くみられます。核家族化・少子化・女性の社会進出等で家族は変容し、「家で家族の力だけで介護する」ことは非現実的、不可能になっているのです。 また親族扶養が“常識”であるために、高齢者や家族が福祉サービスをなかなか利用しない傾向があります。そのため福祉サービスに対する改善要求も出てこないし、社会資源が少ない結果、家族に頼らざるを得ないという悪循環があります。 V.今後の課題 どんな人も個人として尊重されるとの考えが進んでいる北欧では、18歳になったら独立して生活するのが当たり前で、障害を持っていようと、年齢を重ねようと、24時間のケアを受けて、自分の好きな場所で、1人でも生活することができると聞きました。だから高齢になったら子どもに面倒をみてもらうとか、介護してもらうという“常識”はないそうです。 そして子の親に対する扶養義務は、諸外国では撤廃の方向にあります。イギリスは1948年に親に対する扶養義務を廃止しています。スウェーデンでは1979年に家族法を改正して親族扶養を撤廃しました。高齢者は「社会全体でみる」とされているのです。かといって、親子の関係が冷たい訳ではありません。親を扶養しないことは親子の絆を切ること、愛情が足りないこととは違います。 私たち日本人も、扶養義務を撤廃し、家族の役割や家族の関係の見直しをする時期にきているのではないでしょうか。そして、「仕事を辞めたくない」「自分の人生も大切にしたい」という声を、もっと上げてもよいのではないでしょうか。介護者の生活や人権も守られなければならないと思うのです。 ある障害者の方が「私は兄弟・家族とは、扶養義務者という関係ではなく、人間の愛で結ばれたい」と言っていました。アンケートの中にも、「高齢者は社会がみるべき、家族の役割は精神的な支えだけでよい」という意見がみられました。 国や自治体の公的責任によって、1人1人の実情に応じた福祉サービスが整えられたなら、家族の役割は“精神的な支えだけ”でよくなり、親子の関係も愛情だけで結び合わされるのではないでしょうか。「介護できない者が罪悪感をもたなくてもよい社会」「介護者の顔が輝く社会」を実現することができるのではないでしょうか。 おわりに 政府は介護休暇制度や公的介護保険の実現に向かって動き出しました。これは、国民の要求運動の成果によるものです。しかし、さらに親族扶養を強め、家族による介護を公的福祉の肩代わりとして利用しようとする危険があると思います。「社会で支える」という考え方が、勤労者の負担増による相互扶助制度とされ、社会保障ではなくなる危険性があることを私たちは見抜かなければならないと思います。 (城北病院医療ソーシャルワーカー) |
|
トップページへ戻る | 目次へ戻る |