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第73回研究例会報告
 河野 晃(城北病院)
 2004年12月23日、第73回研究例会が開催された。今回、「15年戦争と日本の医学医療研究会」の幹事長である莇昭三氏が「『記住我們』−中国で「731部隊」 遺跡と「遺棄化学兵器」を視る−」と題して報告された。莇氏は2002年の「日中医学大会」にて「15年戦争と日本の医学医療研究会」の活動を発表。これが契機で「中国対外友好協会」から「731 部隊の遺跡調査」「旧日本軍の遺棄化学兵器の調査」を受け入れるとの連絡があり、2004年4月18日より10日間の訪中調査を行った。訪問地は北京、石家荘、チチハル、ハルピン、 瀋陽(旧奉天)等であった。
 私(莇)が金沢大学医学部の学生であった時、病理学の石川太刀雄丸教授や二木秀雄医師が731部隊に関与していたらしいということを聞いた。その後、血友病HIV問題でトラベノール社が非加熱製剤を禁止した後も、ミドリ十字社は1年2ヶ月にわたり非加熱 製剤を販売し続けて数百人がHIVに感染した可能性があることを知り、このような人命を無視した体質が残っているのは、未だに日本社会に「731部隊」の総括がされていないためだと思い、この問題に取り組もうと決意した。(ミドリ十字社やその前身日本ブラッドバンクの設立に731部隊の幹部内藤良一や北野政次等が関与している。)
 731部隊は主として研究の部隊であった。細菌戦の実践部隊は別にあり、中国東北の平房の本部、北京の甲1855部隊、南京の栄1644部隊、広東の波8604部隊、シンガポールの岡9420部隊と当時の全戦線にわたって展開していた。日本の陸軍軍医学校の防疫研究班で作った細菌などが平房で増殖され、それが各地の部隊に配分されたようで、京大、東大から派遣された医師達はこれらの施設を行き来していたようだ。
 日本軍の細菌戦の実態について、中国軍の元軍医学校の細菌学教授であった郭教授に話を聞いた。当時使用された細菌は、主にチフス菌、炭疽菌、ペスト菌、コレラ菌であり、西瓜などの食物や水源、水道を汚染したり、ペスト蚤ネズミを増殖して放ったり、飛行機から食料と一緒に、いろいろな器具に細菌を入れたり、ペスト蚤ネズミとしてばら撒いたりした。また、村落に入って診療するという名目で感染力の強い菌を住民に感染させる方法もとられたという。郭教授自身も1988年までは細菌戦のことをよく知らなかったという。1945年の日本の敗戦後も中国国内での内戦が5年間続き、さらに「文化大革命」で大混乱したこともあり、細菌戦の調査どころではなかったようである。
 平房の731部隊には、鉄道の引き込み線や専用の飛行場があり、アウシュビッツより規模が大きかったようだ。実際に生体実験し生体解剖をしていた場所の「ロ号棟」は731部隊が撤退する時に、証拠隠滅のために爆破して埋めた。現在それを発掘調査中であったが、今の中国の財政力では世界遺産ともいうべきこの大切な施設が十分保存できるのか危惧される。
 現在、731部隊の本部棟は「陳列館」となっている。この陳列館には当時の幹部の集合写真が展示されており、責任者の石井軍医中将を中心に50人ほどが写っている。731部隊の構成は、第一部は細菌研究部(チフス、コレラ、ペスト、凍傷、病理、ウイルス、結核、炭疽、天然痘)第二部は実践研究部(植物絶滅研究、昆虫、航空班)、第三部(石井式濾過器、陶器爆弾製造)第四部は細菌製造部(ペスト菌製造、脾脱疽菌製造)。人体実験の内容は詳細にはわかっていない。敗戦直前に捕虜を殺害し、施設を爆破焼却して証拠隠滅を図り、部隊幹部はいち早く逃亡して日本へ帰還しており、一般の隊員は実験を手伝わされた人達なので全体像はつかめていない。人体実験は、細菌感染実験、凍傷実験、輸液実験(海水、馬血、羊血、死体血等)極限状態の人体反応試験(寒冷、毒ガス、空気注入、気密室、餓死、脱水、感電、失血)病理研究、手術練習など凄惨極まるものであった。
 旧満州医科大学(現中国医科大学)で微生物学の周教授、解剖学の姜教授に面談した。乱暴な骨折のギブス跡がある尺骨の標本や、神経の軸策がきれいに染色されている組織標本があり、おそらく生体解剖による材料だろうとのことであった。中国の研究によれば、中国での生体解剖の最初は1938年で、河北省だけでも135人が手術練習の犠牲者となったという。中国の野戦での生体解剖、731部隊の実態、満州医科大学での研究報告をみると「捕虜」の生体解剖は当時の医学会では暗黙の了解事項だったと思わざるをえない。
 「731部隊問題」を曖昧にし、その幹部を免罪してしまった理由は、アメリカ政府の冷戦政策対応が決定的な要因であるが、同時にこの原因には次のような事情もあるようだ。平房の731部隊の跡は戦後ソ連軍が支配し、その後、国民政府軍が管理し、さらにその5年後から現在の人民軍が管理しているが、中国が内戦のため731部隊の戦争犯罪を追及しなかった(できなかった)こともあるようだ。1953年に生物化学兵器全廃条約の早期批准を政府に提案しようという決議案が、学術会議総会に提案された時に、金沢大学の戸田学長らの第7部会(医学系)の面々が反対した。戸田氏は、戦時中には京大教授で大学内の助手たちに731部隊行きを組織した人物であった。加藤周一氏が日本の戦争責任の曖昧さについて書いている中で、ドイツは政権の外側からヒットラーがファシズムを起こしたのに対して、日本は権力の中枢が全体としてファシズムになったと指摘し、それがドイツでは戦時中の犯罪に厳しく、日本は曖昧な対応になった原因だと述べている。  
 最後に、莇氏は、「陳列館」に書かれていた言葉「記住我們」(jizhu women)(私たちを忘れないで下さい)は非業の死を強制された人達の私達への呼びかけであると語った。

 731部隊の隠密性と隠蔽性(注記、河野)
 1932年8月、石井四郎三等軍医正が陸軍軍医学校内に防疫研究室を設立。その後、石井はハルピン近くに東郷部隊、加茂部隊を設立。1938年ハルピン郊外20kmの平房に大規模な研究施設を建設し、関東軍防疫給水部と称した(秘匿名731部隊)。その後石井は陸軍中将まで昇進。「マルタ」と呼ばれた捕虜を用いて、細菌実験、戦時医学の実験研究を秘密裡に行っていたが、表の仕事として、石井の発明による石井式濾水機を使って前線への給水する「防疫給水活動」に従事し戦闘にも参加していた。この部隊の設立には関東軍参謀石原莞爾の極秘裡の支援があったという。「マルタ」は厳重に隔離収容され、きわめて限られた隊員しかそこに入れず、同僚、家族にも一切他言無用を厳命されていた。ハルピン駅に731部隊専用のホームがあり、そこの秘密の出口から「マルタ」がトラックに乗せられ平房に運ばれた。敗戦を察知し、1945年8月10日、生存していた約200人の「マルタ」を虐殺し重油で焼却し、骨を石炭殻に混ぜて粉砕し、松花江という大河に投棄した。かくして「マルタ」は誰一人として生還する者はなく隠蔽された。戦後、石井等は米軍当局と接触し研究成果を取引して戦犯に問われることはなかった。部隊幹部には大学教授、製薬会社幹部になった者もいるが、下級隊員は秘密を口外しないことを厳命され不遇な生涯を送った者が多い。
(参考:郡司陽子編『真相石井細菌部隊』徳間書店、1982年)

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