特集/在宅医療・福祉を考える

「社会的支援が増えれば、家族の在宅介護力も増える」と言うことについて

ぼけ老人を抱える石川家族の会 小 坂 直 信



 「在宅介護は家族の負担が一方的に大きい。介護者の犠牲の上に成り立っている。在宅介護(医療)がお年寄りにとって幸せであり必要なものであるならば、それらを支える社会的サービスをもっともっと増やし、家族の負担を減らさなければならない。」こうゆう様な言い方がよくなされています。「家族の負担が大きい」と言うことについては、それはその通りなのですが、「負担を減らすために」と言われると、支援を受ける家族の立場からは、なにかちょっと違和感があります。小文でもあり、十分に意を尽くせないかも知れませんが、この機会に少しのべてみたいと思います。
 在宅介護を長続きさせるためには、ゆとりのある介護でなければならないのですが、しかし、家族は「負担を減らしてもらいたい」から社会的支援を求めているのではありません。それは「より良い介護をするために」社会的支援を求めているのです。家族の努力には限界があります。また、在宅介護をしている家族は、しばしば社会的に孤立してしまいがちなのです。そのために、なかなか思うような介護ができないのが現状なのです。父や母、夫や妻、時には子供の為に、家族が人生のある期間を「犠牲」にすることは、けっして否定的なことばかりではありません。そのことにより、他では決して得れないような素晴らしい人生経験をなされた方が沢山おられます。日本語の「犠牲」という言葉には、二つの概念がはいっています。雲仙の火砕流による犠牲などと言う場合のように本人の意志とは無関係にこうむる災害(victime)と、信念のために自分の利益を犠牲にすること(sacrifice)という概念です。(「家族制度」磯野誠一・富士子著)ヴィクティムという犠牲は可能なかぎり防がねばなりませんが、サクリファイスとしての犠牲はいつの時代でもどのような社会でも大切な 行為だと思います。ただ、注意しなければいけないことは、見かけの行為がサクリファイスの様に見えても強要され無理強いされたものは、ヴィクティムになってしまいます。サクリファイスであるためには絶対に自らの選択が必要なのです。これからの日本社会の有り様を考えるときにこの「自己決定」と言うことがキーワードのように思います。選択の幅が広がりそれを自己決定してゆくこと、これこそが日本社会が営々と築きあげてきた“豊かさ”の意味だとおもいます。医療における「インフォームド・コンセント」などもまさにこの自己決定なのです。但し、そこには「自己決定」であるがゆえに「自己責任」であるという厳しさが伴うことを忘れてはならないのですが。
 現在、医療費その中でも特に老人医療費の増加が大変な問題になっており「入院治療の必要がなくなった安定状態の老人は・・・。」とか「病院は治療の場であり、生活の場ではない。」とか「社会的入院はうんぬん」「入院して3カ月たつと医療費はどうなるこうなる」などさかんに論議され、在宅医療が促進されています。一方福祉のほうからもノーマリゼーションとかいわれ「施設より在宅へ」の掛け声のもとに在宅在宅と在宅介護がもてはやされています。この小文は医療費というものがいったい国民総生産の何パーセントが適当なのか、またその内の何パーセントがいわゆる老人医療として当然なのか、しかもそれは逐年変化していく人口の年令構成比を加味して考えるべきである、とか言うことを論じたいのではありません。また、老人介護や老人福祉を「お年寄りが望んでいるから」とか「お年寄りの幸せのために」とかのあまり反対しかねるような建前をふりかざして「家族の負担のもとに在宅を促進させようとしているのだ。」などということに対してクレームを付けたいのでもありません。ただ単に、タイトルに書きましたように「医療・福祉ふくめて在宅介護に対する・ ミ会的支援がふえれば、家族自身の介護能力も増加していくのである。」と言うことをいいたいのです。社会的支援を増やすために、少なくともそのような主張をしたいのです。「家族の負担を軽くするために。」と言う風に論じますと、家族にも誤解を生じさせ、家族の依存心や依頼心を高める恐れがあるのです。依存心が多くなればなるほど、社会的支援はしにくくなります。医療や福祉は一方ではシステムの問題であると同じ重要牲でフェーストゥフェースの人間的な営為であることを忘れてはなりません。サービスの受け手が人間であると同時に送り手も人間なのです。いま、病院の看護婦さんや特養の介護士さん、訪問看護をしている保健婦さんの方々の悩みやモラルの持続には深刻なものがあります。これを単に職業としての誇りだけに頼るわけにはいかないのです。懸命に介護続ける家族はサービスの受けてであると同時に送り手への最大の支援者でもあるのです。ここにも、送り手と受け手の相互依存関係があるのです。
 自助努力を強めれば強めるほど、社会的支援がしやすく受けやすくなります。また逆に社会的支援が多くなればなるほど、家族の自立が促進されていくと思います。たとえ、そう簡単に言えないにしても、そのような支援でなければならないのではないでしょうか。ODAでも農業政策でもまったく同じ事がいえるとおもいます。
 「自ら助くる者を助く。」は“天”だけではないのです。
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