地域からの発信
在宅福祉を考える
ショートステイと老人短期入所施設を中心に
廣 未 利 弥

1.はじめに
 日本の社会は、94年に高齢化率が14%を超え、高齢社会に突入することとなった。7%を超えて高齢化社会となったのが70年のことであり、僅か24年で世界に類をみない速さで高齢社会となったこととなる。

 しかし、それがいかなる問題なのだろうか。政府はしきりにその事を強調し、加えて「30年後には超高齢社会(予想では高齢化率24%程度)がやってくる」と叫び、危機感を煽っている。そして、その準備としての老人福祉の充実を説き、その財源としての消費税や介護保険構想等と賑わしい。ところが、詳しくは後述するが、京都の実情は30年後の話ではない。市内の中心部をはじめ既に高齢化率20%を超える地域が存在し、家族形態の変化もあいまって介護間邁は深刻となっている。その深刻さを助長しているのは、福祉施設の決定的な不足である。

 入りたいと願っても2年待ちとも3年待ちとも言われる老人ホーム。在宅で暮らしたいと願っても、それを援助する在宅福祉施設は乏しく、デイサービスですら1年も待たないと利用できない地域も存在する。にもかかわらず、世は「在宅こそ全て」と言わんばかりに「在宅医療」「在宅福祉」とはやしたてている。そして、介護保険では「自己の選択によるサービス受給」と「在宅」が耳触りの良いキーワードとなっている。老人ホームまでもが、在宅の一過程とする動きとなっており、「生活の施設」は何処に運ばれようとしているのだろうか。

 そもそも住む場所の選択は、個人の自由と自己決定に属する問題であり、どちらが良いかというものではない。老人ホームでのくらしにしても在宅での生活を望むにしても「その人の願いを受けとめ、その人らしく暮らせる」ことを援助すること、保障することこそ社会の責任である。その上にたって、在宅福祉の現状と課邁を見てみることとする。


2.京都における高齢者と介護者の暮らし
 平安遷都1200年を迎えた古都・京都。歴史と文化に彩られたこの街も、近年、高齢化の波をもろに受け、高齢化率は著しく進行し、政令指定都市の中でも最も高齢化が進んだ街となっている。そして、95年国勢調査において京都の高齢化率は遂に14.6%となり、「立派(?)に高齢社会」となっている(97年9月では15.7%)。とりわけ、京友禅や西陣織、清水焼といった伝統産業地域においては、日本の経済を反映した不況と後継者育成難が加わり、一段と高齢化が進んでいる。そして、高齢化の進行とともに、ねたきり老人や痴呆性老人の増加、そして独居老人や老人世帯も増加の一途にある。

 この高齢社会にあって、老人福祉の拡大・充実が極めて緊急な課題として求められており、国のゴールドプランや「保健福祉計画」の策定に基づき、近年、福祉施策の整備が一定すすもうとしているものの、高齢者の暮らしや介護者の暮らしから見るとまだまだ不足している。京都市内の老人福祉サービスの整備状況には次のような問題がある。

 第1に、高齢化率と施策の整備状況を比べると逆転していることである。即ち、高齢化率は市内の中心部ほど高く、逆に施策の整備は市の周辺部ほど高くなっている。これは、最近になってようやく公共用地の活用、公設施設の建設等が始まったが、これまでは民間の社会福祉法人主導型で整備が進められ、おのずから地域的合理性に欠けていたことが最大の理由である。勿論、市の周辺部には不必要という訳ではなく、むしろ、高齢化率や要援護老人の数の多い地域に重点的、積極的に整備を進めるという行政の指導性や計画性が求められる。

 第2に、老人福祉の理念的な課題として、「生まれ育った街」「住み慣れた街」で暮らし続けたいという願いに応えることである。それは、老人ホームへの入所にしても、在宅で暮らすにしても、地域の特性や馴れ親しんだ環境を守ることの大切さ=生活の日常性と連続性を守ることや自己決定権を尊重するという視点をもつことが必要である。少し前までは、「老人ホームをつくる事が先決」「終の住みかだから、何処でも良い」とまで言われ、日常性の速断と隔離に等しい速くの施設への入所を余儀なくされた事は記憶に新しい。その意味では、公設の施設や公共用地の活用が始まったとはいえ、未だに、老人ホームのない行政区やデイサービスの乏しい行政区が存在し、しかも、それらが最も高齢化が進んでいる地域であるという事実は、極めて大きな問題である。

 第3には待機者の問題である。待機者は入所の定員を上回るものとなっており、入所までの期間は2年とも3年とも言われる。在宅での生活が破綻をした後のその期間を如何に過ごすか、想像をはるかに絶するものであろう。国がホーム入所のための必要性と合理性、整合性を保つため設置した「入所判定」という制度により、措置の必要性を決定して尚、待機という事態は著しい権利侵害でもある。介護保険制度が構想として出された時、この議論の最初の方に奇妙で面白い表現がある。「措置は行政処分であり、故に国民から敬遠される。従って、措置制度をやめて選択のできる介護保険に」というものである。「行政処分」を決めながら施策整備の不足という国自らの責任によって「処分」できない事実の責任をどう取るつもりだろうか。しかも、この待機は在宅サービスにも存在する。デイサービスの利用に1年も待たなければならないという事態は、政府が「在宅で看るほうが好ましい」といくら言っても、在宅介護を補完するサービスが利用できないようでは、残るものは「介護者の犠牲」だけとなる。

 第4に、施策の整備にあたっての考え方である。最近、高齢化の高い地域に介護支援センターや訪問着護ステーションが急速に整備されつつある。それは、在宅福祉を向上させる上で大きな役割を果たすものと思われるが、今、介護者が痛切に求めているものは、介護への直接的援助である。在宅3本柱といわれるショートステイ、デイサービス、ホームヘルパーの事業の拡大を優先することこそ緊急に求められている。それらが整備されてこそ、これらの支援事業の効果がより大きくなるという相乗作用が生まれるものと思われる。介護支援センターに寄せられる相談の多くは、在宅介護破綻による相談であり、各種の在宅福祉施策を利用することにより一定の改善と解決がはかれることも多い。「開かれた市民への相談窓口」として支援センターがいくら増えても、施策の不足のもとで解決されない問題が山積したままでは、市民への期待に応えることはできない。そして、これが民間施設で運営されているが故に間邁の本質=即ち、行政責任が見えにくいものともなり、市町村や福祉事務所本来の役割や責任について危惧する声も多い。加えて、支援センターは国庫補助事業であり、職員の配置基準が定められているが、24時間365日体制にもかかわらず、それは僅か2名という職員体制である。この少なすぎる職員体制自身が大きな問題であるが、兼務と称してそれすら実態としては配置していない支援センターもあると聞く。「名前だけの相談員」で、深刻な在宅介護問題を解決できるのであろうか。設置者の良識も問われなければならない。

 94年3月に、京都市の高齢者保健福祉計画が策定されたが、これを1日も早く、且つ、高齢化率の高い地域や充足度の低い地域から優先的、重点的に実現される事を心から期待したい。


3.在宅介護を保障するために
 =ショートステイを中心に
 さて、それでは本当の意味で在宅介護を継続し、或いは、「暮らしの質」の高い生活が保障されるためには何が必要か。私は、(1)願いに応え得る老人ホームの整備、(2)在宅サービスの量的拡大と質の向上、(3)福祉の公的責任と費用負担の軽減が必要と考えているが、紙面の都合で割愛させていただくこととする。そのうえで、本論では、在宅福祉3本柱と言われるサービスの中から、ショートステイの役割と課遺、とりわけ老人短期入所施設に関して介護保険とも関連させながら論じることとする。

 ショートステイという事業は、各種の在宅福祉サービスの中でも、少し色合=性格の異なったサービスである。他のサービスが自宅において受けるものであったり、また、施設を使用するにしてもデイサービスのように専用施設があったり、単独の施設があったりするが、ショートは必ず生活施設である特養を利用し、利用の第1の理由が本人の意志や状況によってではなく、「介護者の都合」によることが特徴となっている。そこから生まれる幾つかの役割や課題と私の問題意識を述べることとする。

 まず1つは、老人短期入所施設(当施設は、50床のショート専用施設をもっている)とは一体何か=即ち、専用施設における取り組みをとおして、その役割と課題を考える事が必要であり、又、色々見えるものがあると思っている。

 当施設は、50床のショート専用施設をもっているが、ショート20床から50床へとなっていった時代の苦い経験から学ぶことが大きいと痛感している。老人短期入所運営事業は、国のレベルでいうと、確かに6万ペットを整備し、在宅支援の1つの大きな柱にしている。

 そして、それを実現するために、施設整備計画として、90年代に入るまでの、たとえば入所定員の1割以内のショート用という整備計画の時代から、ゴールドプランという計画によって一気に増やす中で20床とか、老人短期入所施設という位置づけがされたのである。
 私は、付加的に行っている事業と専用施設の違いは様々あると思うが、一番現場で悩むのは何かというと、ショート利用者の安全、安定と長期入所者の充実した豊かな暮らし、その両方を保障することだと感じている。例えば、50人とか80人定貞で定員の1割以内のショートをやっている通常の一般ショートというところは、お年寄りの生活が非常に長い生活の中で安定しておられて、いわば出来上がったお年寄りの集団の中でショートの方が1割以内で利用される。その時には、出来上がったお年寄りの社会関係、人間関係、コミュニケーションという中に入れられるわけですから、いろいろあってもそこで包み込むように、お年寄りがそれなりに安定されることが多い。

 よく言うのであるが、職員の頑張りも非常に大切であるが、それ以上にお年寄り自身が作り出すカ、醸し出す雰囲気といったものの中で、もちろん個別介護や援助という職員自身の力量が求められるが、安定した暮らしとか、安定した利用というのは、そういった中でできていくことも多いだろ与。ただ、そういう中で20床の時代は、私どもでは増床があったりとかで、かなり複雑な経緯があったのであるが、当時(90年)80床の特養になっていた。その特養では痴呆専用エリアに20名余がおられ、そこに4名分のショートがあり、残る60名足らずのエリアにショートが16人くっついた形となっていたわけである。定員の3分の1ぐらいがショートということになると、そこで毎日2名が入所され、2名が退所されるということで4名が入れ代わる。この事業をやっている時の姿は、でき上がっているお年寄りの集団の方が3分の2程度で、その上に毎日の入れ変わりで4名が変わられると、そこではお年寄りの暮らしというものは、本当に安定も安全もあったものではないというぐらい煩雑なものとなっていったのである。病院の看護婦さんに聞いても(大体、病院で
は40床位で1つの病棟)「そんな事は信じられない」と言われる程である。そして、職員は長期入所の皆さんが気にはなるものの、目の前の「新しいショートの利用者」がよく分からないが故に、頭とJL、はショートにしかいかない事となるのである。それでも、ショート利用者の「事故」が起きたり、又、長期入所の方からは「私らは、放っちらかし」との不満が飛びかうという始末である。

 そこで、地域ニーズも高いので、思い切って2年後に50床の専用施設をつくることになったのであるが、ここには結構ショートの本質的問題があると思うのである。即ち、どのような形態のショートでも、利用者ニーズに応えて利用ができるという事は第一義的なメリットである。同時に、老人ホームで暮らされる方の落ち着いた暮らしも保障されなければならない事は自明のとおりである。そして、ショートは在宅で生活しておられる皆さん方に専門的介護をするという点では、利用中の介護はもとよりbeforeとafterと在宅生活の維持継続、そして、他のサービスも含めた連続的で総合的なサービスを提供できる1つのプロセスとなる事も多いわけである。そういった位置で見れば、付加的時代というのはもう過ぎ去ったのではないか(勿論、付加的な事業でも、そのような視点で運営されておられる施設は多いと思うが)。逆に言うと、やはり専門的にやっていくといった時代を迎えているという点では、老人短期入所施設の役割と効果は非常に大きいだろうし、そこに期待をしていくという事が大事なのではないか。これがまず第1番目の苦い経験の上にたったショートの役割と問題提起である。

 付言すると、特養の中で、ショートの専門性と在宅生活の連続的な維持継続を考える職員がいることが大切である。又、職員配置にあっては、そのショート分を必ず加配することにより安定的体制を実現する事は最低限として求められるであろう。

 2つめは、介護保険と関連してショートの「そもそも論」がある。今回の介護保険の中では競争とか費用負担とか、いろいろ問題はあるのであるが、最も大きな問題の一つは、要介護認定とショートには非常に大きな矛盾が存在するという事である。今回の介護保険の給付は、周知のとおり「現物給付」を原則とし、現金給付はしないのである。95年の総理府調査でも女性の60%は現金給付を希望し、一部の団体から現金給付の要望があったものの、これは一喝のもとで却下されたのである。

その時に、家族支援はショートで行うということを明言したわけである。家族支援はショートの整備によって行うと。ところが、ここに大きな矛盾が生じるのである。要介護認定には家族の事情とか要件というのは入らない。要介護認定は、あくまで利用者=お年寄り自身のADLや痴呆の状況と、それに伴う要介護度に応じて要介護認定と介護区分を判定する。そこには家族といったファクターが入らない。にもかかわらず、在宅介護における家族支援はショートで行いますと言ったところ
に矛盾が発生するのである。

 即ち、これからも家族には家族のいろんな事情があって、介護度のレベルに関わらず在宅介護が困難な時期というものが生まれてくる事は容易に想定できる。私どもでも、利用者の皆様方の5割は介護者の介護疲れがその理由となっている。その介護疲れとは、介護を受けておられるお年寄りのADLの低さ等によって要介護度が高ければ、介護者の介護疲労が高くなるという事は一般的には成立するが、「家族の要件」というものは必ずしもその事と完全に一致する訳でないのである。家族自身が病弱であったり、他に病人を抱えていたり、仕事に追われていたりと様々な条件が存在するわけで、それが要介護認定とは無関係の話となるのである。結局、5割の方が介護者の介護疲れによって利用があり、15%位が介護者の病気によって利用がある(当施設調査より)という事態のもとで、この話の辻複が合うのかという素朴な疑問が出てきて当然だと考えるのである。結果的に、要介護認定を受けることができずに介護者が悲鳴をあげても、ショートの利用の対象外というケースが、或いは全額私費による利用というケースが生まれてくるだろうと思っている。この間題は今度の介護保険の1つの大きな矛盾となってくるだろう。そして、ある意味では、このショートステイという事業が介護保険制度にかかる両刃の剣となって、厚生省と国民の双方に傷を追わせるものとなっていくのではないかと考えている。

 3点目は、それとも関連して介護給付の件である。現行のショートに関する補助制度は、完全に出来高払い(利用により事務費の補助)であり、1日当たりの一般ショート(特養に付随するショート)は98年度で事務費単価が4160円である。これを1ケ月換算すると、事務費で12万円余程にしかならないのである。すなわち、特養の措置費の事務費の全国平均でいえば約半分強位にしかならないのが現実である。即ち、ショートはあくまで付加的なサービスという位置づけが色濃いわけである。比較すると、デイサービスの事務費を換算すると、1日凡そ6000円から7000円単価であるから、日帰りのデイサービスよりもショートの方が少ないという現実となる。

 老人短期入所施設は、今、事務費が7320円である。これは一般ショートに比べれば高いが、これでやっと特養の事務費にほぼ近付いたものとなる。それでも、入所退所に伴う煩雑な仕事や事前面接、アフターケア、そして送迎が義務づけられており、車両購入や維持費、運転手の確保等を考えると、そこのプラスアルファ部分は補助金中では全然計算がない、そんな仕組みとなっている。
 ちなみに、老人保健施設と対比すると、老人保健施設は所謂セミロングの利用であるが、中期的に入られても、それからショートであっても、基本単価は一緒である。今ざっと平均すると1日あたり9320円、痴呆性老人の場合は710円のプラス、但し痴呆専門棟の場合には1230円のプラスである。そして、ショートは1日あたり1300円の付加金がある。従って老健の場合は、最低でも基本給付の9320円と1300円のショート加算となり、1日当たり1万500余円となるのである。極めて大きな差が生じるものとなっている。
 介護保険になると、これらが統一されるとの噂もあるが、どこで統一されるか。一番高いところで統一を願いたいと思うものの、それもまた、矛盾が生まれる事ともなる。即ち、要介護度という判定により、家族のSOSの中身にかかわらず、要介護度の高い方と低い方とで給付金額が変わると言われており、その事が施設の経営バランスに反映することで、家族にとっては必ずしも利用したい時に利用できるか甚だ疑問となる。

 又、もう一つ、心に悲哀がある。介護給付は実はたくさん欲しい。これは施設の管理者からいえば切なる願いでもある。ところが、介護給付をたくさんもらうとなると、利用者の1割負担がまたそこで大きくなるわけである。どうなるかわからないものの、例えば、一般の特養施設に併設のショートと老人短期入所専用施設との入所料金に差異が生まれれば、利用者からすれば一般の特養施設に併設のショートの利用の方が1割負担は少なくてすむということが起きてくることになる。このように矛盾を一杯はらんだ介護保険が、はたしてショートの利用者と家族の期待に真に応えるものとなっていくのであろうか。
 最後に、短期入所施設にかかる施設整備と借入金の返済について述べておく。現在、老人短期入所施設をつくる場合、基本的に国と都道府県、市町村の補助があり、おおむね4分の3の補助で造ることができるものとなっている。ところが、4分の1は自己負担、すなわち多くは借金で埋めているわけである。この借金の返済財源がどうなっているか。例えば京都市でいうと、利子補給制度があり、利子については補助があるものの元金は法人で返済をしなければならないということになる。では、返済財源は何で賄うか。特養等ではご存じの方もおられるが、民改費の管理費加算分は法人本部会計への繰り入れが可能という事で、限定はあるものの一部返済財源に充当することができる。それは全額とはならないまでも、一定程度返済財源に充てられる。ところがショートは返済財源に充てるものがないわけである。民改費という考え方がないので、老人福祉における措置費等運用にかかる通知からいえば、これはできないという事となる。また、将来の大規模修繕や大型備品の買い替えが必要な時期もでてくるが、それを担保するだけの余裕がないのが実態である。

 一般ショートと根本的に違うにも関わらず、制度の基本はあくまで特養の付加的位置づけでしかないこのような制度で、6万床という新ゴールドプランの目標達成と、そして、介護保険制度のもとでの介護者支援というこの事業は、果たして順調に推移するのであろうか。

4.まとめにかえて
 突き詰めれば、介護保険というものが、本当に国民が望む、そして、厚生省が言う「介護不安」に応えられるものとなるのであろうか。最も大切なことは、利用者にとって本当に良い制度になることであり、利用者の選択に催する制度となって、安心してサービスが受けられ、そして施設も安定して実施、運営ができるものにならなければをらない。もちろん「親方日の丸式」の経営無頓着ではなく、自らを律する部分はしっかり律しながらも、何よりも利用者本位の事業を貫くことが求められる。結局、福祉サービスというものは、さまざまな機能=それは、単に「介護」だけに接小化するのではなく、見守りや、スタッフがいる安心、障害に適した住居提供等と、いろんなものがミックスされて暮らしというものが成り立つわけであるが故に、そういったものにしっかりと資するショートステイの在り方と役割、そして運営、経営が守られなければならないのではないだろうか。

 日本社会の現状では、在宅介護とは、介護者があって初めて成り立つ介護である。その介護者の権利が奪われている状況=介護者の生命維持すら危惧される程の犠牲では、結局、障害をもったお年寄りの暮らしも権利も守ることができない。高齢者も介護者も、人間らしく豊かに暮らすことのできる在宅サービスの拡充、不安と絶望ではなく、未来に向かって光輝く新ゴールドプランの実現と安心して老いることのできる社会、真の公的介護保障制度が到来することを願ってやまない。


 ひろすえ としや/
 特別養護老人ホーム・原谷こぶしの里施設長
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