●追悼・高 眞司さん
伍賀 道子・寺越 博之・井奈 由香・加藤賀代子

研究会会員の高眞司さんが 2004年8月27日に逝去されました。 高さんは、 生活保護裁判・支援費裁判をはじめとする様々な活動に取り組まれ、 人間らしい生活の実現と人権保障の前進のために全力を注いでこられました。 研究会の場においても、 研究例会で、 シンポジウムで、 壇上から、 時にはフロアから、 精力的に発言をしてこられました。 本誌にもたびたび登場していただき、 多くの問題提起をしていただきました。 これまでお世話になった感謝の意をこめて、 本号でささやかながら追悼の企画を組ませていただきました。 ありがとうございました。 ご冥福をお祈りします。         (編集委員会)


教えられた 「自分らしく生きる」 ということ
伍賀 道子

 私が大学1年の時、 香林坊の地下で高さんに初めて出会いました。 行き交う人々の中で、 物好きな私は 「車椅子に乗った少し変わったおじさん」 に 「何してるんですか?」 と声をかけたことを今でも覚えています。
 数年後、 ひょんなことから高さんの裁判に関わることになりました。 身体に重い障害を持ちながらも、 自分の生き方を堂々と貫き通す高さんの姿を目の当たりにした私は、 わずか数年間という短い時間の中で、 高さんから多くのことを教えてもらいました。
 まず高さんと出会って、 「当たり前」 だと抱いていた価値観が、 自分の中でガラガラと音を立てて崩れていくような感じがしました。 食べたい物を食べたいときに食べること、 トイレに行きたいときにトイレに行くこと、 寝たいときにぐっすりとベッドで寝ること・・・。 普段、 私が何気なく生活している中で、 「当たり前」 だと思っていたことが、 「当たり前」 でないことがあるという現実、 さらにそれを容認している社会、 そして、 その 「当たり前」 の生活を自分のものとするために、 必死になって生きて闘っている人がいるということを知りました。
 また、 高さんは、 一人の人間として夢や希望を抱きながら、 時にはワガママに生きていくことの意味の大きさを教えてくれました。 周囲に合わせた生き方ではなく、 多くのことを犠牲にしながらも、 「自分はこう生きたい」 という生き様を、 いつも真っ正面からぶつけてくれました。 高さんの生き方は、 見る人にとってはワガママに映ることもあったかと思います。 しかし、 ワガママな生き方だからこそ、 人間らしく生々しくも個性豊かな生き方ができるということ、 そして 「自分らしく生きる」 ということを、 重い障害を持った高さんが体を張って教えてくれた様な気がします。
 高さんが一番成し遂げたかった支援費裁判は、 残念ながら途中で終わってしまいましたが、 どんな人であろうと夢を抱いて生きていくことが当たり前にできる社会であり続けるよう、 今度は私が高さんの夢をつないでいきたいと思います。 高さん、 本当にありがとう。

  (ごか みちこ/城北病院ソーシャルワーカー)


天国の高さんへ
寺越 博之

 高さん元気でやっている?相変わらず戯曲書いている?僕には高さんの作品が上手か下手なのかわからないが、 いつぞや松ヶ枝福祉館で美大の女性の人が演じた芝居、 どんなストーリーだったかわからないが、 あの場面を今でも鮮明に思い出すことができるよ。 あの芝居は良かった。
 高さん、 そっちでは車いすで寝なくても良いのだろう。 夜はぐっすり寝ることが出来るのだろうか。 早いもので高さんがそっちへ行ってから、 もうすぐ1年が経つよ。 この1年間にいろんなことがあったよ。 高さんの審査請求とかで頑張ってくれた田中さんが関わっていた学生無年金訴訟があったろう。 あれは新潟でも広島でも勝訴したよ。 国が巻き返しを図っているので喜んではおられないが、 当事者が頑張って重い扉を開けたのは高さんと一緒だ。
 でも、 うれしいことは少なく、 気が重いことが続いている。 憲法改悪や教育基本法の改悪の動きが非常に強くなってきているのだ。 そしてその流れと同じ延長線にあるのだが、 障害者自立支援法案というのが国会に提出され、 国会の審議が開始されているのだ。
 自立支援という名前だが、 実際は自立阻害、 自立破壊法案だ。 障害が重ければ重いほど、 サービスを利用すれば利用する程、 利用料がかかる。 これまでの応能負担を応益負担に改悪する法案だ。 作業所では作業所に行けば行くほど、 工賃をはるかに越えて負担が数万円の単位で必要となってくるのだ。
 高さん、 この国の偉い役人や政治家の考える 「自立」 とは、 偉い人たちが考えたプログラムにそって当事者が頑張ることだということかもしれない。 頑張らなかった当事者は自立的ではない。 だから支援はしない。 脅しと強制のプログラムだと僕は思う。
 高さん、 三浦朱門という人を覚えていないか。 彼はこんなことを言っているんだ。 「できん者はできんままで結構。 戦後50年、 落ちこぼれの底辺をあげることばかりに注いできた努力を、 出来る者を限りなく伸ばすことに振り向ける。 百人に一人でいい。 やがて彼らが国を引っ張っていきます。 限りなくできない非才、 無才にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです」 と述べているのだ。 彼に言わせると 「天才、 非才はDNA鑑定でわかる」 ので4歳か5歳に検査をしてふるい分けをするのだそうだ。
 高さん、 高さんや僕は彼らからすれば、 非才、 無才で生きている価値がほとんどないけれども天才を輝かすためには存在しても良いかなという存在かもしれない。
 でも高さん、 僕は非才、 無才の僕らでも 「一寸の虫にも五分の魂がある」 というところを見せてやろうと思っているのだ。 非才、 無才であっても無力ではないのだ。 微力なのだ。 微力が集まると大きな力になるのだということを彼らに知らせてやろうと思っている。
 非才、 無才も全て等しく、 人間としての価値があり、 幸せになる権利があると思う。 そのために僕は、 憲法を守り憲法を生かすために、 全力をあげるつもりだ。 もう一歩も引き下がれないのだ。

   (てらこし ひろゆき/
          石川県社会保障推進協議会)



高さんからもっと学びたかったなぁ
井奈 由香

 私が高さんと初めて出会ったのは、 小学校5年生の頃でした。 通いなれた小学校が、 新校舎建て替えのため使えなくなり、 子どもの足にしたら少し遠い、 東山から松ヶ枝小学校 (今の松ヶ枝福祉会館) までの通学路で出会いました。 高さんは、 武蔵が辻の地下道に車椅子に、 テンガロンハットという毎日変わらないいでたちで、 本当に毎日、 毎日、 変わらず座っていました。 私は、 小学生ながらにも何かお金を集めているんだということには気が付きましたし、 学校の先生を含めた周りの大人たちからは、 「あの人には関わるんじゃない!お金の寄付もしてはいけない!」 と言い聞かされたことを覚えています。 それでもたまに見かけない日があると、 幼心にも不思議に思い、 「あれ?今日はどうしたんだろう…。 いないね。」 と友達と話したことも覚えています。 そして、 その当時は名前も知らない、 特異な人とされていた高さんに20年近く経って再度出会うことがあるとは思いもよりませんでした。
 「集団」 でいることに安心してしまうところがある人間が、 「個」 として、 たとえ自分が正しいと信じていることをなりふりかまわず声を大にして、 時には右手をかざし、 主張するということは並大抵のことではないことだと思います。 その何かを成し遂げようとすることで、 反対に何かを失ってしまうこともあるだろうと思います。 それを現実のものとして、 高さんから私は身をもって教わったと思います。
 私は、 毎日の人との出会いを大切にしたいと思っています。 「出会い」 を大切にしたい、 素晴らしいと思う理由はいくつもありますが、 そのひとつに、 その人を通して新たな 「学び」 があると思います。 高さんからもっと、 もっと学びたかったなぁ私。 安らかにお眠りください、 高眞司さま。

 (いな ゆか/城北病院ソーシャルワーカー)



高さん、 幸せだったでしょうか?
加藤賀代子

「俺は自分で死ぬことすらできないんや・・・」
それほどまでに重度の障害を持って生まれてきた高さんに出会い、 生きることの重み、 そして 「自分らしく生きること」 がどれほどの価値のあるものかということを教わりました。
 24時間介護が必要な体でありながら、 「なぜ施設ではなく在宅なのか?」 そのような学生の問いに対する高さんの答えはいたってシンプルなものでした。 「家にいるのは楽しいから」 だと。
 長くはない人生でしたが、 高さんは幸せだったでしょうか?あまりにも急なことだったのでその大事なことを聞くことができませんでした。 高さんが幸せであったかどうか、 それは関わった私たちへの問いかけでもあり、 社会への課題でもあるような気がします…。
 その疑問を持ち続けながら自分の人生を考え、 また、 周りの人たちの人生も大切にしながら生きていきます。

(かとう かよこ/金沢リハビリテーション病院
             ソーシャルワーカー)
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