特集 石川県地域医療計画と住民の健康
石川県における地域医療を考える
小松みなみ診療所 医師岩 瀬 俊 郎
 
はじめに
 現在の石川県の郡名のおこりは、16世紀末の前田家までさかのぽることができる。現在は8市27町6村よりなる。
 県下には13の保健所が存在し、うち11は県が設置するものであり、2は市が設置するもので、金沢市である。管内人口については奥能登で少ない傾向がある(図1)。
 3全総の定住圏構想に基づく生活圏は、石川県を5つに分けている(図2)。各生活圏における世帯数、人口状況は石川県医療計画作成協議会発行の「石川県の医療の現状に関する資料」(以下「資料」と略す)に示されている(表1)。

 人口動態からみた地域特性

 石川県における地域特性を考える場合、地域格差が大きいことがまずあげられる。それをみるために人口の移り変わりからみた人口の集中と過疎の両極において地域をながめてみることにする。


   全 国   石  川
1920年 55,963,053人(100)747,360(100)
1950年 83,199,637人(149)951,279人(128)
1980年 116,320,358人(208)1,119,304人(150)

 石川県の人口は戦前、戦後を通じて増加しているが、全国水準と比べて増加率が低いのがわかる。つまり1920年から1980年の60年間
に全国人口は2倍になっているのに対し石川は1.5倍である。
人口増加率  全国  石川
1960−65   5.2   0.7
1965−70   5.5   2.2
1970−75   7.0   6.7
1975−80   4.6   4.6
自然増加率  全国  石川
1960−65   5.3   3.9
1965−70   5.9   4.5
1970−75   6.4   5.9
1975−80   4.6   4.3
社会増減率      石川
1960−65       △3.1
1965−70       △2.3
1970−75        0.8
1975−80        0.3
 こうした違いを戦後についてながめてみると、上表のようになる。つまり第一に自然増加率そのものが低い事、第二に戦後高度成長期全般を通じて、石川県は社会的には人口流出県であったことが指摘できる。次に自然増加率のなかみについて検討してみる。(次表)まず出生について全国と石川を比べてみると次のことが言える。
・ひのえうま、ベビーブームなど、全国的傾向は石川でも同様にみられている。
・1960年代は全国に比べ石川県の出生率ははぼ1%低いが、70年代は石川県の出生率ははぼ全国水準と等しくなっている。このことは先に検
討した社会的増減と関係あるように思われる。即ち60年代には社会的に流出県であった石川県は、若者の減少のため出生が減少したが、社
会的流出から増に転じた70年代にははぼ全国水準となっていることである。
 自然増加のもう一つの因子である死亡については、第1に1960年〜80年を通じて全国水準を上回っているが、第2にその差は1961年の1.6
%から1980年の0.7%とちぢまっている。第1については1960年から80年にかけて石川県の老年人口が全国と比ベ1.1〜1.4%高いことから
わかるし、第2については、1960年の5.7%に比べて1.1%高いことに比べ、80年の9.1%に比ベ1.4高いことはその差は相対的に小さくな
ってきていることによると考えられる。
 要約すると、戦後の石川県の人口を特徴づけるのは、第1に高度成長期である60年代の人口の社会的流出と、第2に全国に比べ老年人口が
高く推移していることである。
 次に石川県内における人口動態について検討してみる。1920年、1950年、1980年の3点をとることにより、戦前・戦後の動向を分析した結
果、次の4つの群に分けることができた(図3)。
(1)第T群:1920年に比し1950年の人口が減少し、1980年の人口は更に減少している地域。つまり、戦前・戦後を通じて人口減少している
地域である。
 河内村、鳥越村、吉野谷村、尾口村、白峰村、川北村がこれに該当する。
(2)第U群:1920年に比し1950年の人口は
増加しているが、1980年の人口は減少し、1920年の人口数を割っている地域。つまり、戦前は人口増如したが、戦後に著しい人口減少
をきたした地域である。
 珠洲市、輯島市、柳田村、能都町、穴水町、門前町、富来町、中島町、能登島町、鹿島町がこれに該当する。
人   口1920年 1950年 1980年
県内人口比168,674 203,445 151,818
人口数変化 22.6% 21.3%  13.6%
100   121    90


 (3) 第V群:1920年に比し1950年の人口は増加しており、1980年の人口は減少しているが、1920年の水準までは落ちこんでいない地
域。つまり、戦前は人口増加したが、戦後は人口減少をきたした地域である。
 内浦町、志賀町、田鶴浜町、七尾市、鳥屋町、鹿西町、羽咋市、志雄町、押水町、山中町がこれに該当する。
      1920年 1950年 1980年
人   口 128,303 169,167 154,268
県内人口比 17.2% 17.7% 13.8%
人口数変化 100  132  120

 (4) 第W群:1920年に比し1950年の人口は増加し、1強0年人口は更に増加している地域。
つまり、戦前・戦後を通じて人口増加している地域である。
 高松町、七塚町、宇ノ気町、内灘町、津幡町、金沢市、野々市町、鶴来町、松任市、実川町、根上町、寺井町、辰口町、小松市、加
賀市がこれに該当する。
      1920年 1950年 1980年
人   口 436,864 573,874 808,109
県内人口比 58.5% 59.9%  72.2%
人口数変化 100  131  185

 次に、自然増加ないし減少のなかみの一つとして、社会増減率について検討してみる。国勢調査から5年ごとの人口増減を出し、次に石川県衛生年報より5年間の人口自然増減をさし引きし、それを期首人口数で割って算出した(表2)(図4)。
(1) 第U、第U群が1970年より85年にかけて、一貫して社会的に人口流出を続けているのがわかる。その割合は第V群に比して第U群がより深刻な事態である。
(2)第T群については、自然増が群単位となっているため明らかとは出来ないが、第V群にもまして深刻な社会的流出であることが考えら
れる。
(3) 金沢市は1970年から80年にかけては社会的に増であったが、80年から85年にかけては減少に転じているのは注目したい。もちろ
んこれは社会的流入と流出の和であるわけで、藤田氏の調査によると、富山、福井、金沢市はいずれも県内から人口を吸収し、3市とも
東京都には人口流出しているという(図5)。

「転入、転出からみた都市のヒエラルキー(階層体系)ほ東京(23特別区)は3県庁都市の上位都市であるといえよう。」(藤田衛
治「北陸3県庁都市の人口動態」『北陸経済研究』NO.96。1986年6月号52ページ)

 四全総は東京集中から多極分化へと方向転換が打出されたが、屁用機会という点では、2000年にいたる新雇用機会327万人の52.3%が東京およぴその付近に集中することが予想され、上記の傾向は続くものと思われる(1987年6月2日日本経済新聞)。
 次に通勤通学圏を検討してみよう。1980年における石川県下通勤通学圏域は「資料」に詳しい(図6)。金沢・小松への流入が周顔よりみ られるのがわかる。社会増減と合わせて考えると、戦前・戦後というものさしでみると小松・金沢は人口を吸収してきたが、1970年より小 松は、1980年より金沢はむしろ社会減となり、周辺地域に住みついて小松・金沢へ転勤・通学していることが考えられる。少なくとも金沢についていえば、東京にみられるドーナッツ現象の地方版が出現しているといえないか。もっとも金沢の場合より強力な吸引力として東京は違うといえるが。
 能登地域内従業通学率85%以上が多いのは、そこに豊かな仕事があるというよりは、社会
減と合わせて考えると、通勤できる範既に仕事が見つからないため、都市に移住するしかないためと考えられる。その点は職安における労働市場の動向をみても明らかである(図7)。動くことのできない人は、低所得ゆえに出稼ぎが行われている(対談で柳田村長は「石川県の一人当たり県民所得は百五十−百六十万円だと承知していますが、能登は百万円です。このギャップを、追いっかなくても、どう埋めていくかが私たちの村づくりの根底にあるわけです。」とのべている(北国新聞『21世紀石川の提言』1987年52ページ)。
 また、県の試算として生活圏ごとに次のような県民所得を出している。
中 央:206万4千円
七 尾:166万6千円
南加賀:189万2千円
奥能登:143万6千円
羽 咋:173万1千円
 出稼ぎについて少し検討してみよう。
『珠洲市史』には「珠洲市史における出稼ぎと農業労働」という研究論文がある。まず出稼ぎの定義を「地元を離れ、一定期間地域外で就労し、再び地元に帰来する労働力の地域間における回帰的移軌としている。ここからは、出かけたまま大都市に沈澱していく労働者は除外されることになる0「石川県の出稼ぎ核心地域は奥能登の珠洲、輪島周辺に限られ、県の70%を占めている。」珠洲市については、
1975年には「約3千人、農林漁業に従事する人の釦%程度が出稼ぎに行っているという。」同年の農家経済収支によると農家所得が石川県3,113千円に対し珠洲怖2,170千円、また、出稼ぎ被拙夫等収入が石川県髄2千円に対し、1,857千円と非常に高い点から「出稼ぎが家計補助の役割を果たしているというよりは、農業収入が家計補助の役割しか果たしていないようにもとれる。」この点については、能
登公共職安の昭和58年出稼ぎのまとめが「出稼ぎの総収入は30億円を超す。出稼ぎの主力.第二次兼業農家にとっては、米作をはるかに上回る主要な収入源になっている。」(1984年6月28日朝日新聞)とのべていることからも明らかである。
 農業労働とも合わせてみると「珠洲市全体として農業労働力の高齢化が著しいとともに、兼業化も著しくなっていて、しかも不安定な日雇、臨時雇、出稼ぎなどが、兼業農家の半数を超えるという状態を呈している。」
 能登公共職業安定所・珠洲出張所『昭和61年度出稼ぎ労働者の紹介及び就労実態調査』によると61年3月〜62年2月1,449人の調査では50代が642人(44.3%)と最高で、次いで40代318人(22.0%)、60代317人(21.8%)、40歳以上88.1%となっている。「珠洲市からの出稼ぎ者の平均年齢は男49.5歳、女48.5歳で、約2千人とみられる出稼ぎ者の80%までが45歳以上だ。」「80年代後半には60歳以上の人たちが農業の担い手となり、出稼ぎに出ていくようになりそうだ」という発言(1980年4月27日北国新聞)をみると、不況下で企業の採用減と高齢者足切りのため出稼ぎの高齢化が一見減少したように見えていると考えられる。

同上実態調査によると就労先は愛知18.0%、大阪18.0%、滋賀13.9%と関西方面で製造業が77.3%を占める(酒造出稼ぎは南郷、能登、丹波杜氏に多く、「能登杜氏」とよばれているのは有名)。
 出稼ぎはもともと危険・重労働なうえ、一文高」を求めてそういう仕事につきたがるため、危険も大きい。1979年秋より半年にかけて珠洲市内だけで4件の病死があり、「毎シーズン、工事現場の事故などで1人ないし2人の犠牲者を出している。」(1980年5月2日北国新聞)また、半数しか受けていないという出稼者健康珍査をみると(1985年地域健康づくり事業の報告P47〜58)、既往症が166人(27.3%)にみられ、内訳は高血圧58人(34.9%)、神経痛36人(21.7%)、腰痛27人(16.3%)があり、自覚症状は253人(41.5%)にみられ、肩こり148人(58.5%)、腰痛105人(41.5%)があった。高血圧と慢性疲労がうかがわれる。調査の結果の14.0%(63人/舶9人)が高血圧で、42人が要治療であった。
 雇用のほか、生活のしにくさという点で、上・下水道をあげたい。水道料は金沢の基本料が750円に対し、穴水2,350円である。下水道普及率は61年度全国平均37%に対し石川は22%とおくれ、10%以上のところは金沢、小松、松任、乗川のみである。

 人口高齢化

 既にみたように、65歳以上の人口比率は全国が1965年6.3%、75年7.9%、85年10.3%なのに対し、石川は1雅5年7.2%、75年9.2%、85年11.9%と高齢化がより進んでいるのがわかる。
 図8と図9はそれぞれ1965年、85年の70歳以上の人口比率を国勢調査より計算したものである。
(1〉 第T群は戦前戦後を通じて人口減少がみられ、1965年の時点で既に他の地域に比べ高齢化がもっとも進んでいるし、85年も変わりない。この地域の自然増減が町単位で出ていないため明らかにできなかったが、主に社会増減によるためであるあることは明らかであろう。
(2)第U群は戦前の人口増、戦後の激減した地域で、1965年にはやや高齢化傾向ありだが、85年には第T群と同じぐらいまで高齢化が著しく進んでいる。社会減とそれによる自然増の低下がその要因である。いいかえれば過疎化が高齢化の大きな要因となっているということである。
(3)第V群は1985年にはこの群でも第U群に次いで高齢化の傾向がわかる。
 更に市町村別訂正死亡率(図10)は、母数が少なすぎることもあって、はっきりした特徴は見出せなかった。
1985年の平均寿命(男性)をみると、第T群、第U・V群にてやや低い傾向がみられる。
 疾病傾向については胃の悪性腫瘍を示す。母数が少ないため判断は難しいが、図11に示すように能登入口において高い傾向がみられ、これは河野らの指摘と一致する(河野俊一ら「石川県下41市町村におけるがん死亡率と社会経済要因との関連」『北陸公衛誌』8(1)37〜45ページ.1981)。

 医療供給体制

 まず、県レベルにおける医療の完結性について考えてみよう。同県の施設で患者をみている率をみると次のようになる。

   (千人) 入院(千人)外来(千人)
北海道 386.13(99.5%)92.40(99.4%)293.74(99.5%)
埼 玉 256.96(87.3%)33.44(81.8%)223.52(88.2%)
石 川 77.83(99.0%)16.31(98.0%)61.52(99.3%)
完結性が一番高いと考えられる北海道では入院の99.4%を自県でみているのに対し、完結性が低いと考えられる埼玉では81.8%と5人に1人が他県でみることになる。それに対し石川県は98.0%であり、完結性は高いといえよう。
 医師数の比較は表3と表4に示す。全国的にみると、1955年86,244人から1984年173,452人と2.01倍に増加している。そのうち診療所に勤めている医師数は1955年52,299人と医療施設従事医師数の60.6%を占めていたのに対し、1984年には71,821人と19年間にわずか1.37培ののぴで、絶対数としては増えているが、相対的には医療施設従事医師の41.4%にすぎなくなった。これに対し、病院勤務医師
数は1955年33,945人と医療施設従事医師の39.4%だったのに対し、1984年には101,631人と2.99%増となり、58.6%を占めるに至った。
 石川県についてみると、同じ傾向がより顕著にあらわれているのがわかる。まず医療施設従事医師数が1965年1,230人から1984年2,151人と1.75倍に増えている。うち診療所医師は1965年650人と医療施設従事医師の52・4%なのに対し、1984年には665人とわずか1・02倍の増加で相対的には30.9%を占めるにすぎない。全国的には病院医師数が珍療所医師数をこえるのは1980年なのに、石川県では1970年よりとより早期なのがわかる。病院勤務医師数は1965年585人と医療施設従事医師数の47.0%だったのに対し、1984年には1,486人と2.54倍となり、その割合は69.1%を占めるにいたった1。
 人口10万人に対する医師数をみると、診療所医師数は全国的にみると1965年61.2人に対し84年59.7人とわずかに減少傾向を示している。石川県も同様な傾向があると同時に全国水準を常に下回っているのがわかる。これに対し、病院勤務医師数は一貫して全国水準を上回っており、更に1965年全国41.4人に対し、石川県59.6人と1.45倍と格差はむしろ開く傾向にある。
 全医師数をみると全国トップにあるといわれるが、その中身として診療所/病院比を問題にした。更に病院勤務医師数についてもう少し詳しくみると、1984年全国において医育機関附属病院の勤務者が、33,206人と医療施設従事医師数の19.1%なのに対し、石川県の場合775人36.0%と高率に集中していることも考慮する必要がある。医療法による医師定数は61年1,377人に対し在簿1,630人と116%である。しかし、文部省、県立、学校法人の定数208人に対し、在籍数802人、380%をのぞくと、定数1,155人に対し、645人、56%となる。
 次に医療施設について表5に示す。全国的にみると1965年より1弧4年にかけて、一般病院は1.2倍に、診療所は1.21培にふえている。これに対し、石川県では一般病院は1965年87(8.9/10万)とすでに全顔水準をこえていたのが、85年には134(11.7/10万)と1.54倍となり、全国水準をこえて増加している。これに対し、珍療所については1965年762(77.7/10万)は全国水準をこえていたが、1980
年に入ってそれを割り、1985年には701と0.92倍とむしろ減少しているのがわかる。
 こうした状態と患者動向の関係についてみてみると、1984年10月の受療率は全国的には外来患者数の70.3%が診療所に流れているのに対し、石川県は63.8%にすぎない。更に病院の人口比率が一番高い高知県では58.5%である。これらのことは、病院比率の高いところでは、病院外来比率の高くなるのがわかる。
 医療供給体制について考察する際もう一つの問題点としてその偏在牲が挙げられる。
 図12に珍療所の、図13に一般病院の1975年
から84年にかけての変化を示した。
〈1〉 第T群
  診療所減のみ(白峰村)
〈2)第U群
  珍療所減(穴水町、能登島町を除く)
  病院増(柳田村)
 この点では柳田村長竹内虎治氏の次の発言
は示唆的である。
「奥能登はおしなべて高齢化が急テンポでしてね。ただ医療横関さえ充実していれば私は心配ないと思っている。というのも田畑や山仕事などお年寄りの活躍できる場がいっぱいあるからなんです。」(北国新聞社『21世紀への提言』1987年48ページ)
〈3)第U群■
  人口減に応じて診療所減(志賀町、田
  鶴浜町、鹿西町、志雄町、押水町)
   人口減に応じて診療所・病院減(七尾
   市)
  病院減と診療所増(鹿島町、羽咋市)
(4〉 第W群
  診療所増のみ(七塚町、津幡町、内#
   町)
  診療所減のみ(宇ノ気町、寺井町)
  病院増のみI(高松町)
  診療所減と病院増(辰口町、鶴来町)
  診療所増と病院減(松任市)
  診療所増と病院噂(金沢市、野々市町、
  加賀市)
  病院減のみ(小松市)
 次いで「一般病院病床数をみてみると、全国的には1975年72万床から84年105万床に変化しているのに対し、石川県では11,096床から15,561床に増えている。図14に示すように、病院が0となった鹿島町を除き、病院数の増えたところはもちろん、病院数の減ったところも病床数の増えているのがわかる0病昧数の劃ヒがないのは富来町と山中町だけである。これらほ病院の大規模化の反映と思われる。つまり、1975年には一病院当たり平均85床だったのが」1984年には113床となっている。当然そこには患者要求も考えられようが、大規模でないとやっていけなくなっている診療報酬体系、設備投資のみを評価するマスコミの動向も見のがせない。
 以上まとめると、ここ10年間に人口の増減に応じて医療機関が増減してきた。言い換えれば過疎化は医療機関の存在も困難にしてきていることである。もう一つは病院規模の拡大が全県的におこっていることである。病床数だけをみればここ10年“充実してきた”と言えるが、診療所をはじめとする第一線医療機関の弱体化を、病院の大型化が代償することができるか?今回の地域医療計画の必須事項にはこの点の検討が欠落している。
 有泉らは白峰村と能登島町の診療圏調査を行っている(有泉誠ら『一山村における医療圏の変遷』北陸公衛誌8〈1)52〜57ページ、1981)。図15と16に軽・重症別診療圏を示した。軽症では村の診療所で、重症では鶴来または金沢へというのが受診行動である。「医療圏に影響する各種要因のなかで最も作用効果の大きいものとして、まず道陋交通があげられるので、その発達との関連で医療圏拡大を解釈しても許容されるものと考えられる。」(同上)
 重症の場合はありうるとしても、軽症に対しても鶴来または金沢に29%とあるのは単に通勤上のこととしてよいか?図17に1985年国保老人入院外1件当たり日数を示すが、第1群が目立って低いのがわかる。交通圏の発達は医療圏を拡大させるのが完全にうまくゆけば、医療過疎は交通事情改善の課題に置き換えられるが、老人の慢性疾患に対する日常管理についてはそれだけでは解決できないということを強調しておきたい。生活圏を参考に一般病床を求めると次のようになる(1985年)。
       人口   病棟   10万人当たり
奥能登   113,031 899  796床
七尾・鹿島 158,581 1,961 1,236床
羽咋郡
石川中央  693,606 10,151   1,463床
南加賀   186,925 2,317   1,239床 

第2次医療圏は日常生活圏を参考に、広域市町村圏を配慮して設定することになっている。病床との関係からいうと一般人院を扱えるという点で、一応自己完結性をもっことが要求されている。入院患者の他地区への依存度は調べられないが、少なくとも1974年の調査(土肥幹夫・脇坂潔「地域社会と医療」『北陸経済研究』1980年11月6〜23ページ)をみる限り広域化していることがわかる。奥能登についていえば、入院患者として半分が自分の地域でみれないでいて、2次医療圏として成立するか疑問である。厚生省の指針では、流出の多い場合必要病数の追加を認めているが、こうした流出が異常に多いことそのものを問題とすべきである。また、少なくとも入院患者の半分は第3次医療留で扱う患者とは考えにくい。更に、1974年以降の変化としては、金沢・小松とその周辺への人口集中化と能登の一層の過疎化の進行であり、交通圏の拡大から患者の流出は増加が予想される。

※本稿は、シンポジウムでの報告「地域医療計画の歴史、項状と問題点」(1.地域医舞計画の歴史と問題点、2・既に作成された県の地域医療計画について、3・石川県の現状と問題点)のうち、3の部分を加筆、訂正してまとめていただいたものです

トップページへ戻る 目次へ戻る