特集/在宅医療・福祉を考える
ホームヘルパー制度28年の歩みと
        これからの在宅介護
石川県家庭奉仕員協議会前会長 高 橋 慶 子
1.はじめに


 今、各地域では、高齢社会への様々な取組みが始まっている。在宅福祉の3本柱であるデイサービス、ショートステイ、ホームヘルプサービスのうちホームヘルプサービスは28年間の歩みがある。このサービスは利用が個別の日常生活の場であることにより、住居・食事・衣服・家族等の様々な問題が絡んでいる。しかし、実際には量的にも質的にも利用者のニーズに対応できるものになっていないし、様々な問題を抱えている。私は縁あってホームヘルパーに10年取り組んできた。ささやかな経験から課題提起をしてともに在宅介護について考えてみたいと思う。


2.高齢社会の到来と介護サービス


 日本は、21世紀に向けて急速な高齢化が進展している。その1つの原因は平均寿命が1989年に男子75.91歳、女子81.77歳と伸長して、後期高齢者の老人人口が増加していることである。一方、出生率は低下して、1989年には1.57人、1991年には1.53人となって年少人口が減少、将来の老人人口を支える生産年齢人口の減少が問題にされている。そのもとで、家族構成にも、個々人のライフサイクルにも大きな変化が現れている。
 戦後の「量」を追い続けてきた我々の生き方の結果が生活の中で醜い形になって現れ、環境や医療、住居問題等、日常生活における衣食住すべての面において、当たり前のささやかな文化生活が難しくなってきている。
 高齢者の問題では我が国独特の「寝たきり老人」があげられる。「寝たきり老人」は、我々が戦後、伝統的な日本食を頭から一時期否定したり(食)、ネクタイで体を締め付けたり(衣)、生活の質を考えないで場当たり的にうさぎ小屋のような住み家を増やし(住)、毎日行くところは職場、疲れきって定年までストレスと一緒に働く等々、生活の質を考えない日常生活を送ってきたことが大きな要因であると考えられる。
 このような状況のもと、医療・保健・福祉の需要が急速に増大しつつあり、高齢者を支える介護の必要性が社会的に問われ、心があれば誰でもできると社会的に軽視されてきた介護が、技術や知識を要する専門職として認められ、1987年5月介護福祉士の資格として誕生した。
 この高齢社会を迎えるにあたり、厚生省では施設介護サービスを拠点とする在宅介護サービスの充実、ボランティアの育成による地域ぐるみお互いの支えあい、誰もが利用しやすく、いつでもどこでも選択できるサービスを目指して、次のように基本的な方向を提起してきた。
@1986年6月 長寿社会対策大網が閣議で決定。医療・保健・福祉・所得保障・雇用・生涯学習・住宅・研究開発などを網羅した。
A1988年10月 長寿・福祉社会を実現するための施策の基本的考え方と目標について厚生省・労働省より国会へ提出。医療・保健・福祉・所得保障・雇用・研究開発について具体化し、平成12年にホームヘルパーを5万人にする等の具体的目標値も初めて提示した。いわゆる「福祉ビジョン」である。
B1989年12月 厚生省、大蔵省、自治省が合意で高齢者保健福祉推進十か年戦略を決定(高齢者福祉十か年ゴールドプラン)。高齢者の保健・福祉サービス等の確保について、福祉ビジョンで示した水準を大幅に上回る目標(例:ホームヘルパー5万人→10万人)を提示すると共に、新規施策(例:在宅介護支援センター、ケアハウス)に取り組む方向を提示した。
 これらの施策のうちでも在宅介護サービス、とりわけホームヘルパー制度は量的にも質的にも大幅な改善が求められている。では改善すべき具体的な課題とはなにか。このことを28年の歩みをたどりながら考えたてみたい。


3.ホームヘルパー制度28年間の歩み


 28年の歩みは、表にまとめたとおりである。詳しい内容はこの表を見ていただくことにして、以下では、私がこれまで考えてきた内容にもふれながら、簡単に28年間を振り返ってみる。
 ホームヘルパーは、1955年の上田市社協の「家庭養護ボランティア」に始まる。1960年代始めまでは、所得保障制度が一応整ったことを除けば、要保護老人に対する施策としては、貧困者対策の一部としての生活保護法(1950年制定)による養老施設への収容保護等があるにすぎなかった。1962年には国が「老人家庭奉仕員派遣事業」を創設し、国庫補助が行われるようになった。この頃の対象者は、養老施設にも空き部屋がなく、生活保護を受けて食生活もやっとの日暮らしが出来る状態の人であった。
 1963年に制定された「老人福祉法」には、第12条で次のような条文のもとに「老人家庭奉仕員による世話」がうたわれた。「市町村は、社会福祉法人その他の団体に対して、身体上又は精神上の障害があって日常生活を営むのに支障がある老人の家庭に老人家庭奉仕員(老人の家庭奉仕員が訪問して老人の日常世話を行うものをいう。)を派遣してその日常生活上の世話を行わせることを委託することが出来る。」
 なお、法案作成当時厚生省は、この事業の重要性を考慮して、老人家庭奉仕事業の普及拡大を図るため市町村長が行う国の機関委任事務とするよう意図していたが、大蔵省及び自治省との折衝の結果、上記のようになった。この時に機関委任事務とならなかったことが、市町村でこの職業の重要性が考慮されず、現在まで家庭奉仕員の質と量の確保ができなかった原因と思われる。
 このことに関連して最近の状況に一言ふれておく。1990年の社会福祉関連8法改正により、老人福祉法では家庭奉仕員の名称がなくなり、居宅生活支援事業が新しく誕生した。その時も、高齢者や身体障害者などの居宅生活の支援をする在宅福祉サービスと施設における施設福祉サービスを、地域の実状に応じて市町村が一元化を図ると規定し、市町村はその実施に務めるものとしたが、義務化には至らなかった。厚生省や私たちのように在宅福祉の充実を願う人々は、ホームヘルプ事業等の義務化を強く望んでいたのであったが、公的な部分で在宅福祉サービスが、義務づけられなかったことにより、依然として公的責任のあいまいなサービスになってしまった。
 1960年代後半から70年代始めにかけて、次第に家庭奉仕員制度は拡大されていったが、もしこの頃に、人が人を援助するというこの業務の困難性に注目し、先見牲のある地方自治体が、家庭奉仕員を職員に採用、専門の研修を行い質と量の確保にカを入れていたならば、今頃はかなり基盤ができていたであろう。
 質の確保への対応では、その後、1981年に老人福祉開発センター編集による「ホームヘルパー必携」が発行されて全国の市町村家庭奉仕員に配布され*翌82年には72時間の初心者研修が始まるなど少しずつ動きがみられるようになった。しかし、全体的な研修システムが設けられるのはずっと後のことである。

*「ホームヘルパー必携」は、基礎知識編と技術編の2編が出版された。この冊子の編集委員には、日本家庭奉仕員協会の前会長井上千津子氏がホームヘルパーとしてただ一人編集委員に加わった(氏は、現在介護福祉士養成校の講師であり、在宅介護技術研究会会長である。)因みに、編集にあたった老人福祉開発センターは、1974年1月老人福祉と健康を増進し、生きがいを高める諸事業を行う目的で、昭和天皇の御下賜金をもとに設立された団体で、現在は長寿社会開発センターと名称が変っている.

 1982年には、在宅福祉サービスが有料化になるという大きな変化があった。有料化は、低所得層だけが利用できたこれまでのサービスを、誰でも利用できるようにする第一歩であった。しかし、利用者がお金を払うと、時間一杯仕事を言いつけられて必要以上の仕事をやらなくてはならないと、家庭奉仕員自らが反対の声を上げ、仕事や社会情勢の移り変わりについていけない態勢を示した。
 1986年9月1日の朝日新聞一面中ほどに家庭奉仕員の研修制度の充実と、ヘルパーの身分が登録制となり、利用者からの直接電話1本でサービスが提供されると、絵入りで掲載された。
 緊急のサービスが必要なときはこの方法が良いと思われたが、利用者が高齢であるからもう少し良い方法があるのではないかと思った。その後、各県に1988年から高齢者情報センターと各家庭に緊急電話が取り付けられるようになった。
 身分保障の面では、介護従事者の量拡大のために、この時からパート化が進んでいった。いわゆる「住民参加型」をうたい文句として。質と量の使いわけの一番大切な時期に、国民性からくるものか一部の人の考えか、安上がりの福祉と捉えられるようなことになっていった。このような職場には、養成校を卒業した若い、介護をライフワークとする福祉に燃える人材はやってこない。参考までに、在宅サービスの提供方法におけるパート化・多様化の状況をいくつか紹介しておく。
@ 宮崎県の介護ヘルパー派遣事業。特別養護老人ホームに委託。
A 武蔵野市福祉公社。ソーシャルワーカーとパートヘルパー。
B 福岡市公社。業務指導員(保健婦、家庭奉仕員経験者5人)と登録ヘルパー450人を置く。
C 新潟市。新しく増やすホームヘルパーはパート採用。
D 神戸ライフケア協会へ市が委託。ライフケア協会のコーディネーターの指導のもとに特別養護老人ホームの介護福祉士が寝たきり老人宅へ訪問。コーディネーターに1時間につき350円。
E 横浜市ホームヘルパー協会。業務指導者とパートヘルパー。


 以上が、ホームヘルパー制度28年の主な歩みであるが、ここで金沢市の状況についても簡畢にふれておく。
 基本的な流れとしては、ほぼ国の動向と同様であり、1963年の老人福祉法の制定に伴い、老人家庭奉仕員2名を配置したことから始まり、身体障害者家庭奉仕員、心身障害児(者)家庭奉仕員を逐次設置し、またその対象も国の要綱に従い、順次拡大し、多様化するニーズに合わせ独自サービスを揃え、有料化も行っている。
 1990年には、金沢市福祉サービス公社が設立されて、家庭奉仕員派遣事業の委託先も、これまでの金沢市社会福祉協議会から公社に変更された。
 しかし、奉仕員の雇用形態、処遇、勤務形態あるいは業務内容等は、はとんど従前と同様であり、利用者宅への直行直帰であることから、ケース検討あるいは、活動記録等も不十分であり、技術等の討議が行われる体制はできていなく、パートと区別が付かない状態である。


4.ヘルパー10年の歩みと経験


 私は、1981年に北国新聞掲載の金沢市広報で家庭奉仕員に応募、採用された。当時全国の老人家庭奉仕員は13,220人であった。
 金沢市における奉仕員の経済的保障は、私が採用された年から社会保険が付き、1983年に退職金制度ができた。この退職金制度は、1990年金沢市福祉サービス公社発足にともない、奉仕員は一旦全員退職になりせっかく掛けた退職金も途中で切れて清算された。
 交通費は、訪問先まで一律1カ月4,000円〜9,000円であったが、1990年から全額出るようになった。しかし、1971年から勤務形態は、対象者宅への直行直帰であったから、委託先の社会福祉協議会までの交通費は支給されなかった。
 給料は、新規採用された人も長年勤めている人も同額であり、1年雇用であった。仕事の上では経験を積んだ人のマニュアルもなく、何が起きてもその場かぎりの対応で、相談する場所もなく、人もいなかった。
 私は、その時仕事の積み重ねも評価されない異様な雰囲気の職場環境をどうしても理解できなかった。真剣に考えている先輩はいなかった。家庭奉仕員間の良い意味での競争もなかった。私は1からやってみようと思った。奉仕員を半年やってみて、老人のはとんどが、病気を持っており、ヘルパーとして準看の勉強ぐらいやらなくては、奉仕的精神だけでは本当の援助はできないと考えた。
 準看の学校へ行き学校案内を頂いてきて、委託先の金沢市社会福祉協議会の上司に伺ったりしたが、病院ではないので勤務しながら学校へ通うことは無理であった。
 勉強したいと思っていた矢先に、ひょっとしたことから、1982年の第12回家庭奉仕員海外派遣事業に参加させていただき、全国から15名の在宅福祉に燃える方々と13日間寝食を共にした。訪問先は、アメリカ(ダラス、シカゴ)カナダ(トロント)であったが、家庭奉仕員の身分が低く、教育を受けていないメキシコ人が多かったことで家庭奉仕員の身分のことを考えさせられた。多民族国家である故に施設がすべて民族別であったこと、住みなれた地域に施設があり、家で使っていた家具が施設に持ち込まれ使われていたこと、在宅の終末ケアも医師指導のもと各専門職そして訓練されたボランティアで行われていたことが印象深く、日本の家庭奉仕員は孤軍奮闘していると思った。
 その時、日本家庭奉仕員協会があることを知った。それは家庭奉仕員の全国組織が2つあるということであり、家庭奉仕員の声が1つになりにくいと言うことであった。*
 それから勤めながら通信教育で社会福祉主事、地域福祉活動指導員の資格を取り、また日本赤十字家庭看護、老人看護法を1988年までかかって勉強し続けた。日曜日は東京まで日帰りで介護技術の研究会に参加した。
 また、全国ホームヘルパー協議会副会長と石川県家庭奉仕員協議会会長を4年半務めさせて頂き、精一杯、資質向上の研修会を開催することが出来た。振り返ってみると多くの方々と出会い、ご指導を頂きお世話になり、周囲の理解があったなればこそと感謝の心で一杯である。
 1990年、介護福祉士資格取得。やっと勤めを辞める決心がつき看護学校を受験、幸いにも入学でき、現在は看護を勉強している。
 この10年間、在宅介護には医療が必要であると考えてきたが、入学してみて、ますますその思いを強くした。医療と福祉のトータルなサービスが高齢者の社会サービスの基礎となるであろう。また、利用者がニーズに合わせて、施設介護、在宅介護サービスを使うことにより介護の一元化が出来てくると思う。

*職能団体は次の2つである(設立順)。
1.日本家庭奉仕員協会(長寿社会開発センター)
2.全国ホームヘルパー協議会(全国社会福祉協議会)


5.これからの在宅介護に望む


 今改めて高齢社会に生きることを考えると、このままでは在宅福祉に未来はない。住みなれた住居で人が人を援助するホームヘルプサービスは援助する人の質にかかっている。それは共に生きていく地域社会の人的資源の質にかかっている。
 今までに、国は年金・医療・介護サービス等の中で、さまざまな努力を続けてきているが、市町村の実施体制等が不十分である。
 社会福祉は、一部の貧困者対策では無くなっており、他人ごとではない。物心両面から豊かな老後生活を送るためには、私たち自身の思いを寄せていかねばならない。特に在宅介護サービスは、市町村の地域の人々の人的資源で住民基盤を打ち立てなければならない。いまだに介護サービスについて量的な数字合わせをしているようでは、将来に対応できない。「国民みんなの手と厳しい目」で公的努力に参加することが必要である。
 これからは見せかけの福祉社会でなく、日常生活そのものが福祉文化につながっていく社会を実現しなければと思う。そこには共に生きる地域社会が誕生していると思う。

<参考文献>
@ 厚生省社会局老人福祉課「老人福祉法の解説」中央法規、84.8
A 厚生大臣官房老人保健福祉部「老人の保健医療と福祉」(財)長寿社会開発センター、 91.3
B 全国社会福祉協議会・全国ホームヘルパー協議会「ホームヘルプ活動ハンドブック」全国社会福祉協議会、84.11



*ホームヘルパー制度の28年の歩み
1955年 *長野県上田市社会福祉協議会より「家庭養護ボランティア」が発足。
1957年 *大阪市での民生委員連盟委託による「臨時家政婦派遣事業」開始。
1959年 *名古屋市、神戸市、布施市、秩父市にて実施。
    *東京都で東京都社会福祉協議会に委託実施(2区に限定)。
1961年 *国民皆年金体制
1962年 *国が老人家庭奉仕員派遣事業を創設、全国で250人、5大都市にて実施。
    *家庭奉仕員の国庫補助が行われるようになった。
1963年 *老人福祉法の制定
1966年 *中央社会福祉審議会「老人福祉施策に関する意見」家庭奉仕員を早急に全市町村に配置を。
1967年 *身体障害者家庭奉仕員制度の発足。
1969年 *東京都社会福祉審議会「東京都におけるコミュニテイ・ケアの進展について」フルタイムとパートタイムで業務分担を考える。
1970年 *心身障害児家庭奉仕員制度の発足。
    *「在宅老人入浴サービス」(浴槽車方式)宇都宮市
1971年 *「寝たきり老人訪問看護制度」東村山市白十字病院に委託。
1975年 *特別養護老人ホームによるケアセンターの開始。
     ショートステイ・入浴サービス等を東京都緑寿園で始める。
1981年 *「ホームヘルパー必携」基礎知識編、技術編の2冊が発行。
1982年 *国は、72時間の初心者研修を「老人家庭奉仕員派遣事業運営要網」に定める。
 5月 *神戸ライフケア協会が発足、在宅福祉運動の展開。活動開始。1980年から民間福祉グループによるネットワークが始まった。
10月 *在宅福祉サービスが所得に応じて有料化。
     現在の費用徴収税額は、1時間0円〜650円で、前年度の所得税額に応じて決まる。
    *老人の隣近所の人による介護人指定派遣制度は、家庭奉仕員派遣事業と一元化された。
    *老人保健法制定
1983年 *老人保健法が2月に施行された。
1989年 *市町村の新規委託先の委託費用は一回ごとの出来高払いになった。
    *家庭奉仕員の業務内容の変更「家事・介護に関すること」から、「1.身体介護に関すること 2.家事に関すること」に変更。
     手当の補助基準 介護型 年間2,525,344円  家事型 年間1,623,963円
    *家庭奉仕員の国庫補助が1/3から1/2となる。
1991年 *家庭奉仕員段階研修システム導入。1級課程360時間、2級課程90時間、3級課程40時間
    *労働省で介護アテンド・サービス士の技能検定誕生。
    *ホームヘルパーチーム方式を導入。
    *老人ケア実習センターを市民総体験を目指して利用できる施設を作る。高齢社会の理解を深めるために主婦、老人クラブ、企業からの集団参加、中学生の課外授業など対象。
    *痴呆性老人の日常介護専門センターをデイサービスセンター内に設置。
     (7〜8人の小規模なものも作る。)
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