特集/在宅医療・福祉を考える
在宅患者を支える地域の医療・保健・福祉
白梅学園短期大学 木下安子

はじめに


陶器をやきあげる釜の火の色は美しい
良い作品を生み出そうと
精一杯もえているからだ
そして 真けんに生きる人間の姿も
また 美しい
くいのない人生をおくろうと
精一杯もえているからだ
完全にもえつきること
それを目指して 生きて行きたい

たとえぼくに明日はなくとも
たとえ短かい道のりを歩もうとも
生命は一つしかないのだ
だから何かをしないではいられない
一生けんめい心を忙しく働かせて
こころのあかしをすること
それは釜のはげしく燃えさかる火にも似ている
釜の火は陶器を焼きあげるために精いっぱい燃えている

石川正一

 これは進行牲筋ジストロフィー症の石川正一君の残した詩である。事実、完全に燃え早きて23才7か月でこの世を去った。映画−ありがとう−は、彼の死を写したドキュメント作品である。幸い、1989年国際赤十字ゴールデンシップ賞受賞の栄誉に輝いた。
 この石川君の生き方と、その命を支えたものの素晴らしさが、各国の審査員の胸をうったに違いない。そして今も彼の残したものが地域で生き続けている。

1.日野市の地域ケア形成過程

 日野市は1976年、「医療と福祉を進める会」と地域医師会が中心となり、保健所、市も参加して難病検診を開始した。専門医療の提供には都立府中病院(現神経病院)があたった。これをきっかけに、地域の患者たちに保健・医療・福祉の総合的なチームケアが提供できるようになった。さらに1982年には日野市地域ケア研究所が作られ、その互助組織、愛隣舎が活動しだした。

(1) チームで支えて
  −日野市地域ケア研究所の誕生−
 石川正一君の父君である左門氏は、その著書、“ささえ合う暮らしとまちづくり”に、次のように述べる。

 <正一が遺した願いを受け継いで>
1979年6月9日の夜、病気の進行はいよいよ自力呼吸不能の段階にまで到達した。すでにこの時を予測していた渡辺先生は、前々から神経内科と連絡をとり準備体制を整えていたので、ただちに入院の手続きをとられ、正一最後の入院生活が始められた。そして10日後の6月18日午前7時、正一は都立府中病院神経内科の2階病棟の一室で昇天した。23歳と7ヵ月の生涯であった。
 さて、葬儀が終わって3週間も経たぬある日、いまだ虚脱状態から醒めやらぬ我が家に、一通のハガキが舞い込んできた。それは、“故石川正一君をしのぶつどいへのお誘い”という、案内状であった。
 “集い”は日野市医師会と日野市医療を進める会との共催による呼びかけであり、不思議なことにこの催しは遺族である我が家のまったくあずかり知らぬところだったのである。
 その趣旨は、正一がこのまちに生き、このまちに残した数々の心の贈物を思い起こすと同時に、彼が願っていた「すべての人が安心してともに生き、ともに住めるまちづくり」を考えるということであった。つまり我が家もまた、遺族としてではなく、一市民としての立場での参加を求められたのである。
 昭和54年7月15日、日野市庁舎の食堂を開放して催されたこの集いは、約150名はどの参加をみた。日野市長=森田喜美男氏、日野市医師会会長=花輪音三氏らの挨拶に始まり、行政、市民団体、教育関係者、ボランティアグループなどの多彩な発言により、この催しが故人を偲ぶというよりは、しめやかなうちにも熱気に満ちたまちづくりの市民大会のような雰囲気に終始した。そこでは石川正一を囲んだ医療チームによるサービス活動こそが、在宅ケアの具体的な理想像であり、それを必要とするすべての市民に提供される体制づくりこそが、真のまちづくりであることが異口同音に指摘された。そしてこのまちづくりの運動の輪が、正一との出会いによって生まれ、彼を囲むお互いの人間関係によって支えられてきたことが、数々のエピソードとともに語られた。 
 司会を担当した、日野市医療と福祉を進める会の池上洋通氏は、この集いを通して2つの事柄が確認できたとして、次のように指摘し参加者一同の深い共感を呼ぶところとなった。

1.石川正一が、このまちに残した地域ケアの体制づくり運動の遺産を、今後いかに普遍化させるかという課題への取り組みの姿勢を新たにしたこと。

2.この運動を誓い合った今、ともに生きるために、何かをしないではいられない気持ちを呼び起こさせ、人の心と心の結び目となった石川正一の存在と、その果たした役割の意味の重さを、あらためてもう一度思い起こすことができたこと。

 <在宅ケアを支える施設>
 筋萎縮症患者の短期滞在が教えたもの
 さて、偲ぶ集いの翌月のことであった。突然ではあったが2人の筋萎縮症の女性が、亡くなった正一の部屋に住み込むことになった。1人は東京進行性筋萎縮症協会の会員で墨田区の栗原マキ子さん、1人は同じく東筋協会員で地元日野市在住の高沢優子さんであった。
 マキ子さんには、同病で3つ違いの妹さんがあり、年老いたご両親がこの2人の病身の娘のお世話をしていたわけであるが、過労と風邪のため両親が同時に倒れてしまい、残された身動きのできぬ娘2人の面倒を、誰がどこでみるかという問題が起こったのである。幸い妹さんについては、近隣の親戚が引き受けることになったが、より重度の柿のマキ子さんを、正一の部屋が空いているので、筋萎縮症の在宅ケアには経験豊かな私たち夫婦が一時あずかってくれないかということであった。栗原家と我が家は、東筋協の会員同志という関係を超えた間柄であり、そして、栗原さんは東筋協の事務局を担当してくれた運動の良き協力者でもあった。マキ子さんは明るい人柄で、本人の文書活動や取材などで地元日野市でも知名度が高かったので、地元の人々の協力が得られやすく2週間ほどお引き受けした。
 マキ子さんが自宅に帰ると、1日も間を置かずに入室してきたのが優子さんだった。優子さんの場合は、やはり年老いたご両親に面倒をみてもらっている都営住宅住まいの3人世帯であった。ところがお父さんが突然ガンで市立病院に入院したため、優子さんとお父さんの両方をお母さんが家庭と病院を往復しながら世話をするうちに、今度はそのお母さん自身が極度の過労でダウンをしてしまった。そしてお母さんは、同じく市立病院に入院し、お父さんと枕を並べることになり、マキ子さんを早めに追い出すような形で、残された優子さんが、正一の部屋に入室してきたのである。優子さんもまた、地元日野市では知る人ぞ知る障害者運動の知名の士で、亡くなった正一とも肩を並べて運動をともにした仲間であったので、私たち夫婦も地域の人たちもお世話がしやすく、10日ほどの滞在期間となった。
 難病の在宅ケアについては、私たち夫婦は経験者であるとはいえ、それは我が子についての経験であり、同じような病気ではあっても、1人ひとりはそれぞれの個体差があり、ケアの知識、技術はそれぞれについて新たに学び直す必要があり、正直にいって正一の場合よりもはるかに精神的に疲れを感じた。今回の成功は、正一を囲んだ在宅ケアチームのメンバーの方々の支えがあったからこそ可能であった。
 以上の引用で概要が理解されるであろう。

(2)日野市地域ケア研究所の設立
 石川左門氏は、こうして小規模施設の建設を決意する。当時、私の所属していた東京都神経科学総合研究所に、この施設のあるべき方向の研究を委託された。研究所に関係の方々に集っていただき、研究会を発足させた。約3年間にわたり、内外の資料、文献を蒐集し検討し、老人・障害者施設やショートステイの実態を調査した。
 結果は全く新しいタイブの施設の構想が創られていった。そして次の事業概要にみられる施設が出来る。

<日野市地域ケア研究所−事業概要より>
 どのような疾病、障害であれ、人はだれでも家庭で療養生活を送りたいと願うのが、その偽らぬ心情ではありますが、高齢化社会を迎えて、いよいよ重度化、重症化する傾向は、患者・障害者を介護する家族を過労の極に追いやり、今や一家とも倒れ、家庭崩壊寸前の状況を多く生み出しています。
 こうした状況に対応するための、単なる物的な社会資源の充足には限度があり、援助の手を必要とする患者・障害者の家族へのまちぐるみの支援が、今日ほど求められている時はありません。
 まちぐるみの支援体制には2つの課題があり、1つは患者・障害者と、その家族を取り巻く在宅ケアの体制づくりであり、1つはこうした在宅ケアの援助活動を、継続的、安定的、計画的に維持するための、地域全体としてのケアの体制を、どのようにするかということであります。
 当研究所は、以上のような課題に、具体的に実践的に取り組むための研究機関として、設立されたものでありますが、その研究活動の全容は、概ね次のように考えられます。
 
 ○研究テーマについて
 1.チームケアについて
  ・ニーズの把握
  ・ケアチームの編成
  ・チームメンバーの役割分担、接点
  ・チームワーク、リーダーシップ
  ・患者・障害者、家族との人間関係
  ・ケア技術の開発
  ・役割とカリキュラムの作成
  ・チームメンバーの育成計画
 2.療養指導について
  ・食事の内容、食事の取り方
  ・介助、介護の仕方
  ・自助、介助、介護用具の工夫
  ・家屋の改築、改善
  ・療養記録の内容と記し方
  ・援助者との連携
  ・社会資源の活用
 3.一時保護施設のあり方について
  ・施設の種別、機能、適性規模、運営管理
  ・施設のあり方と法的環境整備
  ・入所事由、入所条件(資格、了解事項の承認)
  ・入所と費用負担
  ・施設の種別と設備、規模、構造
  ・施設と他の社会資源との連携
  ・事故と責任問題
  ・苦情処理方法
 ○研究方法について
 1・入所施設(ケア研究施設)を設置し、患者・障害者、家族、援助者、研究者等を宿泊入所をさせ、入所体験を共有する。
 2・在宅ケアチーム(研究チーム)を編成し、体験入所を通して、療養生活の実態と問題点を把撞する。
 3・入所体験の記録、分析、まとめを行う。
 4・ケアの対策をたて、実践を試みる。

(3) 日野市地域ケア研究所の活動
 在宅患者の身近な市民が、専門職の支援、指導のもとに、ボランティアとして援助しようと、訪問、ショートステイ、デイケア等を行っている。サービスの提供者も受け手の患者家族も共に会員で、ともに幸せに暮らせる街をつくる仲間である。またその成果を客観化し、普遍的なサービス形成に寄与しよう研究活動を行う。

 「勝手より つたい流れる 笑い声
  臭(あじ)よし 声よし 機嫌よし」
 これは筋萎縮牲側索硬化症で在宅療養している62才の女性、Kさんが、「ショートステイ」でボランティアに支えられて過ごした日の歌である。はずむようなリズムカルな歌に託して彼女の喜びを表現している。
 この筋萎縮性側索硬化症は、「難病」に指定されている。そして手足は全く動かず、呼吸困難、嚥下困難があり、一般的には入院適応の状態といえる。しかしKさんの場合は、彼女より高齢の夫と在宅で生活している。そして周辺からさまざまな援助の手がある。ホームドクターが週1回往診、専門病院の専門医が月1回、訪問診療をしている。保健所の保健婦や、ボランティアが訪問し、時には「ショートステイ」を利用し、夫を介護より開放する。
 このように重い障害がある場合でも、適切な支援体制があれば一般の人と同じように家族と共に生活出来る。難病と聞けば「暗い日々を過ごしている」とイメージされる患者が、実はたくましく、見事に生き、そしてこの歌に示されたような明るく、余裕をもった人生の達人であることさえある。
 Kさんはこの研究所の趣旨に賛同し、協力を惜しまない。サービスをうける立場であり、またこの事業の担い手でもある。
 このような地域で保健、医療、福祉が互いに協力し、有機的に結びついていることが重要である。システムとして機能することはケアの発展には欠かせない大さな意味を持っている。

2.保健・医療・福祉のシステムをどうつくるか

(1)1人1人の患者を大切にすることから
 保健、医療、福祉が協力をしてやっていくというのが世界の趨勢である。デンマークやスウェーデンでもいま大きくそういう方向に変わりつつあり、日本の場合でも医療や保健は、地域活動の経験は浅く、むしろ福祉にゆだねていた。しかし、次第に保健も医療も地域活動に参加してと変わりつつある。しかし実際の経験者たちが、地域でのリーダーシップを発揮し、保健や医療の専門職がどうしたら活動できるか、配慮することが期待される。そして“チーム”“組織”“システム”と言葉のみが独り歩きしているが、それらが初めからあるのではない。東京の場合、難病患者がいた。だれか気がついた人が、お手伝いを始める。あの人が苦労しているのだから私も手伝うということからチームが生まれた。1人の患者を取り巻いて、1人の年寄りを取り巻いてチームができ、経験が重なりあい、3つとか4つとグループが生まれる。中には数人の世話している人が出てくる。そこに仕組みが生まれてくる。いわゆるシステムというものが生まれてくるのである。1人の人に対してきちんとしたお世話をしたい。どんなに頑張っても、住民や数人では限界がある。保健所の保健婦に入ってもらおう。患・ メがかかっている病院の看護婦にも出てきてもらおうということから専門職を含む仕組みができてくる。仕組みが地域にないのが当然で、それをつくるのは一番患者の身近な人が声を出していく。力を出していくということから始まる。

(2) 専門技術の向上
 地域社会の変化の方が急激である。保健・医療・福祉の専門職は、今、そうした状況に追いかけられる立場で変化を求められている。その中で新しいものに挑戦していく、いかざるを得ない状況に立たされているといえよう。
 どうしても自分の持っているものでは足りない部分をいそいで補わなければいけない。そしてあとから出てくる人は介護福祉士など、新しい専門知識・技術を学んでくる。少なくとも彼らが勉強する程度の内容は、現場にいるものがマスターしなければいけない。そのような日々の向上の努力が必要である。そこで生涯学習が出来る仕組みを、地域の中に作っていくことが重要である。

(3) ネットワークの発展の条件
 ネットワーク、ケアシステムの発展をうながす条件を、以上の事例からあげてみる。
 @ 援助者が対等な関係で活動に参加すること
 関係機関、関係者が、各機関、各人の主体的な活動でなければ、良い活動、長続きのする援助関係は成立しない。自分の仕事としての誇りと責任のある行動として行われることである。その意味ではこの活動に参加する専門職の人々の意欲と自覚はもっとも重要な要素といえるだろう。
 A 血の通った援助計画がたてられること
 援助計画は具体的で実行可能な計画であることである。抽象的にいかに高い理想が掲げられても、実践が困難であれば目的が達成できないばかりでなく、メンバーの挫折感が強くなり、意欲を喪失してしまうことになりかねない。常に日々の行動によって獲得可能な目標に向かって、チームメンバーが努力できる計画をたてることである。
 B 患者、家族の気持ち、意見を聴く姿勢をもつこと
 患者、家族の意見をよく聞き、いつも援助をうける人の立場にたった計画が立てられなければならない。専門職は専門牲をふりかざしてしまうと、相手の考えにたてなくなる。謙虚に常に援助をうける人々から学ぶ姿勢がなければならない。
 C 他機関、他職種の意見をよく聴くこと
 共に働く関係職種の人々の意見を専重し、その人達の属する機関の条件について理解しいつも自分の計画を修正、変更していける度量がなければならない。計画がうまく行かない時、えてして相手を非難し、相手に譲歩を求めがちであるが、この場合問題は解決せず、感情的なしこりが残ったりする。相手の条件についての理解不足からくることも多い。したがってむしろ、自分の側がなにをすれば円滑に運営できたのかを考え、行動の変更をする。そのほうが積極的な解決方法である。こうした柔軟な発想が大切である。
 D 学び合う関係を
 定期的に連絡会、カンフアレンスなどを持ち、話し合う機会を意識的につくることはより効果的である。活動目標や情報の共有化、互いの役割の確認をはかれ、共同体としての自覚が育っていく。学習意欲が育つ。
 場合によってはカンフアレンスに患者家族が参加し、地域の住民が参加することは、討論の質をたかめ、活動が地域活動に発展することにつながる。
 E 地域のネットワークを意識し、その発展をはかる方向を模索する
 共に働く人が活動しやすいように自分の仕事をすることは、チームの発展に大きな影響をもつ。さらにまだ参加していない機関や職種についてもその参加を促し、協力をすすめる姿勢をもつことである。情報の提供や参加しやすい条件づくりをこころがける。
 さらに大切なことは、個人的な努力に終わらせず、組織と組織の協力体制、すなわち地域保健医療福祉システムにしていく努力がいる。そうでないと担当者が変わるたびにチームがくずれ、また第一歩から始めねばならなくなる。まず医師は医師間でチームをつくり、看護職は保健婦、看護婦が手を組む。こうして身近なところから協力し、その連携をすすめ、次第に地域保健医療福祉システムが形成されていく。
 日野の地域ケア研究所はその形成過程の中から、住民主体のケアの補完的施設として誕生し、今、最も不足しているショートステイ、訪問介護活動等を研究活動と一体化しておこない、地域ケアの充足に貢献している。ケアシステムを作ろうとする方向がなければ生まれることはなかったであろう。このような創造的な発展をみるのが単なるネットワークとの違いであろう。

3.在宅ケアを発展させるために

 以上、ネットワーク発展の条件についてみたが、一般に考えられているように家族の介護力に期待することではなく、専門職が主体となって行うものである。その観点から在宅ケアを進める方向について考えてみたい。

(1) 在宅ケアはどこが、どんな努力をするのか
 すでに在宅ケアがはじめられている。しかし、それは容易な道ではない。地域の医師会が非常な熱意で努力した地域で実っている。国立、公立病院の比重が少なく、民間の医療機関が圧倒的に多い日本の医療供給体制をみるとき、在宅のケア体制を急速に整えうるだろうか。
 まず第1に在宅ケアは能率のよくない仕事である。1件の訪問診療は、往復の時間を含め、外来だったら沢山の患者の診療が可能な時間を要する。しかも医療者側の都合で動くことは出来ず、常に患者宅の条件にあわせなければ出来ない。器具、器材は持っていかなくては患家にはない。複雑な処置には病院職員が何人もでかけるか、地域の訪問看護婦、保健婦、家庭奉仕員と連絡をとり協同して仕事が出来るように体制を組まねばならない。所属の異なる人々が共に働くには、実に面倒な手続きを要する。こうした連携の努力なしに実行すればケアの効果は期待できない。関係職種が互いの専門性を尊重し、協力しあう基本的理念がなければならない。
 第2に在宅ケアの最も大きなネックは、現状の地域では在宅に手をのばす人が確保できないことだろう。在宅ケアにたずさわるマンパワーは、当然、保健・医療・福祉の専門職を多量に必要とされる。現状でさえ医師の往診体制は開業医師の高齢化もあり難しい。看護婦は病院、診療所で不足し、厚生省でさえ20万人の看護職員の不足を予測し、在宅の有資格者の掘り起こしをするという。その程度のことでは到底不足の解消は出来ないし、在宅ケアへ看護職を導入することは出来ないだろう。保健分野でも現状で手いっぱいの状況で、保健婦は訪問件数が伸び悩んでいる。あらたに福祉の分野では介護福祉士が登場し、国家試験が行われその養成が始まったが、おそらくこの人々も福祉施設へ吸収されるだろう。また、医療を要する人のところへ家庭奉仕員だけがいっても戸惑うばかりである。きちんとした医療が提供出来る人材の供給をしなければならない。これは国が行うべき重要な課題である。
 第3に在宅ケアを行う職員は現教育体制では不十分である。在宅ケアは今までの医療職種の保有している技術では対応できない新しい方法論が求められる。地域社会のなかでの活動であり、保健・医療・福祉関係職種間の連携、協力をすすめるなど、広範な組織活動についての知識と社会技術的な訓練を必要とする。専門職の養成は速成には出来ない。きちんとした質的、量的検討のうえに教育計画がたてられなくてはならない。
 第4に前述のように老人保健法で国は「市町村の姿勢・努力にかかっている」として、殊に高齢者対策については、医療・保健・福祉の全ての分野についてその運営、実施主体を市町村とする方針で進めている。しかし、財政的にも、人的資源についても弱い自治体の仕事として心配はないだろうか。当初、保健婦の5,000人の増員がいわれていたが、実際はそうはのびなかった。むしろ今は介護福祉士に期待しているようである。国の予算でも家庭奉仕員派遣事業、デイサービス事業、ショートステイ事業などののびは見られる。しかし、在宅元年と言うからには、その程度ではないしっかりした保健・医療・福祉の在宅支援体制をつくる方策を提示し、その拡充強化を国の責任において図るべきだろう。医療法改正に伴う地域医療計画では、むしろベットの規制をはじめ、病院職員のマンパワー等、病院から在宅へサービスを提供する余裕をなくしている。いままでも経営を度外視して在宅ケアを実施してきた病院・診療所の経験や、また難病の患者たちに対して行われた活動があった。そうした具体的な在宅ケアに対し、国、自治体が支援し、公的責任において在宅ケアが普遍的に出来る体制を つくっていくことだろう。上からの発想ではなく現実を評価し、そこから芽をのばしていく方向で行うことが重要であると考える。


 おわりに


 日野市地域ケア研究所を中心に、在宅患者を支える地域の医療・保健・福祉の実践を述べ、そこから地域ケアを構築する上での普遍的な教訓が導き出せるのではないかと試みた。各地での実践の経験を交流し、討論が交わされ、その方向へ進むことを期待している。


*文中の引用は、石川左門『ささえあう暮らしとまちづくり』(萌文社1990.11)からで、著者及出版社の御了解を得た。なお、本論文と関係するものとして以下の論文を挙げておく。
1)木下安子 心身障害者の保健・医療・福祉の課題 東京都神経科学総合研究所研究紀要1986年度1987.3
2)木下安子 難病患者の生活実態と保健・ 医療・福祉サービス 同上
3)木下安子 介護福祉のネットワーク―医療・保健・福祉の連携― 社会福祉研究44号 pp19〜24 1989.4
4)木下安子 訪問看護の歴史 訪問看護 金原出版1990.2
5)西 三郎他 難病への取組みと展望 松野かほる 西 三郎 木下安子編著 公衆衛生協会 pp68〜165 1989.1
6)木下安子 地域における医療・保健・福祉の連携 月刊保団連 1990.1 pp24〜27
7)木下安子 地域福祉の発展と保健・医療、地域保健・医療・福祉の連携 明日の福祉 F 都市の農村の福祉 中央法規 pp255〜259 1988.3
8)関谷栄子 在宅看護活動の現状と展望―看護職種の協働 看護展望 15巻3号 1980.pp20〜30
9)木下安子 家族危機と在宅ケアの支援体制―都市生活の健康と福祉の充実をめざして―日本保健社会学会編 都市化・国際化と保健医療の課題 垣内出版 pp190〜201 1991.4
10)小沢 温他 在宅独居老人の介護条件に関する事例調査―地域社会資源とその療養条件及び介護労働とその費用 社会学研究10号 pp71〜76 1991.6
11)木下安子他 とくに往診および在宅ケアに関する実態調査に基づいて 日本プライマリ・ケア学会誌 9巻1号 pp43〜49 1986.1
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