特集/脳死・臓器移植を考える
腎移植について

      金沢医科大学泌尿器科
     北陸腎移植センター所長 津 川 龍 三

1.腎移植の現状

 慢性腎不全患者は今や10万を越え、週3回の透析と食事制限は、本人はもとより家族にとってもきわめてきびしいものである。又医療費も1人年間500〜600万円と多額にのぼる。一方腎移植患者では、免疫抑制剤の服用と定期検査のみで(年間100万円以下)、日常生活の質は飛躍的に向上する。もちろん血液透析は不要となり長期出張もできる。現在移植腎の生者率は90%前後にあり、末期腎不全に対する「腎移植」は、医学的に最も有効な治療法として確立されているといってよいし、さらに経済効率も良い。
 いうまでもなく「移植医療」は提供者の存在を前提としている点で、他の疾患のように患者と医療関係者の存在のみで成二立するものとは全く違う。腎移植が広く普及し、腎不全患者が】一人でも多く生きがいのある生活を送れるようにするには、提供者が増えるようにならなければ一歩も進むことができない。血縁者たとえば親からの提供には限界がある。
以下北陸腎移植センターと、石川県腎臓バンク(富Lj」・福井にもある)と移植の実際などについて述べたい。

2.北陸地方腎移植センターについて

 このセンターは全国ネットワークのうちの北陸地域を担当しているもので、仕事の第一一は北陸3県の透析患者のうち、死体腎移植を希望する人に対し血液検査を行い(赤血球・白血球型)、その結果を患者名、住所などの情報と共に国立佐倉病院の中央コンピューターに登録しておくことである。現在までに北陸3県で800名(全国総計2方)の登録がある。実際の動きについて述べると、死が予想され、患者さんの日頃の考えや腎を提供してもよいという家族の同意が得られた段階で採血を行い、当センター(24時間体制)へ急送しこれを検査し、その結果を佐倉の中央コンピューターに「今までに登録済みの受腎希望者のうち、誰と誰に適合しているか」という適合者検索の依頼をする。20分ぐらい待っていると、まず提供者の発生県、次に北陸3県、さらに全国の規模で適合している人の氏名が適合度のよい順番で20名ずつコンピューターからうちだされてくる。適合度がよく、活動的な感染がないことなどを配慮し、適当と思われる患者とその主治医に連絡する。患者さんはすぐに移植病院へ直行し、移植手術をうけることとなる。すなわち2つの腎の行先の選定が大きな仕事である(図−1)。もちろん要請されれば腎の摘出に出動することもある。北陸での今までの状況をみると、腎提供者の発生地は富山4、石川5、福井3で、提供を受けた患者は富山7、石川12、福井4となっていて、85%が生者中である。なお血縁者問生体腎移植は、北陸では1975年からはじめられ、金沢医科大学病院の161(1年生著率91%)のはか、総計約200となる。
 さて日本の現状はどうだろう。約10万人の腎不全患者が透析を続けているが、その中で移植を受けた人は1988年の1年間で703例、うち死体腎157であった(なお1989年は717例で190が死体腎、1990年は757例で233が死体腎)。アメリカは同じ1988年10万人の透析人口のうち移植が9,000例に行われ、うち80%が死体腎であった。ヨーロッパでは2,500例が行われ95%が死体腎で行われた。またわが国での死体腎移植の1年生者率をみると約85%、欧米との比較ではむしろ5%はど日本が良い。問題は実施数である。すなわち欧米の10分の1である。わが国で腎移植を本気で推進するのなら、提供者を身内に頼っていたのでは限界があり、死体腎移植を増やす努力をするしかない。


3.石川県腎臓バンクについて


 そこで腎提供者を増やす対策としで「腎臓バンク」という考えが生まれた。実際の仕事としては「自分がもし死ぬようなことがあったら腎臓を提供してもよい」と書かれたカード(これをドナーカードという)を発行する事である。カード保持者を増やすためマスコミその他を通じて普及活動を行い、組織適合性検査への助成を行ったり、また運営基金の募集などを行うのである。当県のバンクは全国で22番目として既に発足し、既に活動中であり、そ三川県でカードを持っている人は6,500である。すなわち2と3は車の両輪の関係になる。


4.腎移植の実際


 移植手術は通常提供された腎の腎動脈を受腎者の内臓骨動脈に、腎静脈を外腸骨静脈に吻合するのであり、尿管を膀胱に吻合し約3時間半かかる。難易度はかなり高い(図−2)。「移植」には拒絶反応がつきものであるが、シクロスポリン、アザチオプリン、ミゾリビン、ステロイド、ALG、OKT−3、FK−506、デオキシスバーガリンなどが続々と登場し、臨床や実験で著明な効果があげられている。もちろん移植に用いられる臓器の新鮮さが重要なのは生物学、科学の原則を知る人なら容易に理解できよう。大切なことは情念の世界ではないことである0死体腎移植は、現在の習慣で死亡とされる心拍停止後に摘出した腎で行われているが、術後2週間は無尿で、この間透析を行ったり合併症も多く、本人はもちろん家族みんなで心配したりきわめて苦労が多い。はっきりいって医学的にナンセンスな2週間である。これは温阻血時間が良いことによるので、これがゼロである脳死患者から胃を煩ければ術後すぐ尿が出ている(欧米)。今この問題が明確でないので、脳死患者からの肝や心の移植は周知のごとく日本国内で全くできない状態が続いている。付け加えていうならば、提供者の心拍が止まってから肝臓が提供され、それを移植しても機能せず、卦ナた人は死亡するという事態になる。それならばはじめから手術しないことである。

5.移植医療と社会

 あとは日本社会のやる気の問題である。腎移植をはじめて17年、私は日本人とは何だろう、日本文化とは何だろうと何何も考えさせられてしまった。今日本は医療の面からも品格が問われている○移植に反対を唱える人はいてもよい。腎臓病になったのは自分の運と諦観し天意にまかせるのも一一つの人生観である。ただしそれでは太古の昔に戻るのみである。又透析でよいのだと考えるのもつの選択である。さらに、「人から臓器を提供してもらってまで生きようとは思わない」といぅ意見もある。もちろん生きざまの一つである。又自分の死後、自分の臓器は誰にもあげたくないというのも−一つの信条である。だからといって、手術そのものや拒絶反応というリスクを承知の上で移植をしてはしいと熱望する患者さんと、臓器を提供してもよいといぅ人の中へ入ってきて、声高に異を唱えるのは残酷というものである0移植を望めぬまま病床に坤吟し、無念のうちにこの世を去ることになる患者の身になってはしいものである。


6.むすび

 以上、臓器移植医療は人類愛に基づく善意の提供によってはじめて可能となる。実施にあたっては医学的に明確なデータのもとで納得のいく提供と移植であるようにすればよい。提供とは人間のできる最大の「布施」ではなかろうか。日本人はそれがでさる民族だと思っている。
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