−<特集>患者の権利について考える
がん告知と末期医療を考える
     がん告知と末期医療を考える会 森 田 本 淳
1.はじめに
 「がん告知と末期医療を考える会」の代表を努めております森田と申します。
 本日のテーマは「愚者の権利について考える」ということですが、私自身は病の床についたことはありませんし、また患者さんを精神的にサポートした経験もまだありませんので、少し荷が重いというのが正直なところです。しかし、以前私たちの会が蕗先生にお世話になった関係で、どうしても断り切れずに出てまいりました。よろしくお願いいたします。
 私たちの会は、自らが末期のがん患者であった泉沢美枝子さんと今川透さんのお二人、すでにお二人ともお亡くなりになられましたが、このお二人の呼びかけによって、1990年8月に発足いたしました。年に4回程度の例会を開いて、ホスピスについて学習したり、がん患者ご本人やその家族の体験談を聴いたり、あるいはお医者さんや看護婦さんを講師に招いてお話を聴いてまいりました。本日はそうした学習や討論を通して私なりに気付いたことを述べてみたいと思います。

2.末期医療現場での問題点
 まず、現在、末期医療の現場で何が問題となっているかということで、4点あげてみました。
@がん告知
 一番大きな問題としてがん告知の問題があります。初期の胃がんや乳がんのように治る見込みのあるがんの場合は随分告知されるようになって来ましたが、転移期に達したがんのように治る見込みのない場合は、現在でもほとんどが告知されていません。しかし、多くの患者さんは告知されていなくても、自分ががんであることを察知しています。患者さん同士のネットワークは強く、自分が今飲んでいる薬が何であるかは、医師が告げずとも互いに情報交換して知っています。隣のベッドでがんで死んで逝った人と同じ薬を、今、自分が飲んでいるとすれば、自分がその人と同じ病気であることは容易に知ることが出来ます。
 ところが、自分が今どういう状態にあるのか、あるいはこれから先自分が一体どうなるのか。一番知りたい情報を医療者も家族も教えてはくれません。肝心な質問になるとみんな逃げてしまいます。一番辛い時期に一番孤独になってしまいます。患者さんは医療者や家族に対して不信感や猶疑心を抱いたまま、そして、お互い知っていて知らないふりをしながら、「だましあい」の中で人生の最期を迎えなければならないという現状があるかと思います。
 A蘇生術の意味
 次に、患者さんご本人も自分はもう駄目だと思い、家族や医療者ももう絶対に助からないということが分かっていても、医療者はその命を1分1秒でも延ばすことに専念して、心臓マッサージなどの蘇生術を施します。しかし、その蘇生術にどれだけの意味があるかと言えば、実はほとんど意味がありません。患者さんの命が長引くとはいっても、数十分とか数時間長引くだけです。例えば、80歳のおじいちゃんが苦しい思いで蘇生術を受けて、僅か数十分命が長引いたとしても、どれだけの意味があるでしょうか。その上、蘇生術は通常は家族を病室から出して行うため、家族は愚者さんとの最期の別れに立ち会うことが出来ません。これが人間らしい死に方だとは、とても言えないと思います。
 B痛みについて
 次に、痛みの問題。お医者さんは治療に直接関係のない患者さんの痛みに対して、全くと言っていいほど無関心です。モルヒネの使用により、がんの痛みは90%以上緩和出来るようになって来ているにもかかわらず、痺痛治療が積極的に行われていません。そのため、がん患者の多くは今でも痛みに耐えながら亡くなっています。これがもし治る病気でしたら、痛みに耐えることにもまだ意味があるのかも知れませんが、がん患者の場合は全く無駄な痛みに耐えているとしか言えないと思います。
 C人体修理工場としての病院
 最後に、医療者は病気しか診ないという現状があるかと思います。私たちの会の代表だった今川さんは、「お医者さんは私のおなかにあるがんにしか興味を持っていない」と、よくおっしゃいました。医療者は患者さんの患部だけを診て、患者さんがどういう人間なのか、どういう家族関係や社会関係の中で生きている人なのか、あるいは、どういう精神構造なのかということに全く無頓着です。現在の病院は壊れた機械の一部を修理するように人間を修理する、人体修理工場になってしまっていると思います。

3.問題の根底にあるもの
 以上、現在の末期医療の現場で問題となっている点を4つあげてみましたが、次に、こうした問題の根底に何があるのかを考えてみたいと思います。
 @患者の意思の無視
 まず、末期の患者さんがどういう病状であって、どういう治療をすればどうなるのかという情報が家族に対してのみ与えられ、そして、治療方法は医師と家族だけの相談で決定されて、患者さん本人の意思が全く無視されています。もちろん、がんを告知することは家族にとっても、医療者にとっても辛いことですし、告知された患者さんも苦しみ、死に対する恐怖と不安を持つことにはなります。しかし、たとえ本人も家族も医療者も苦しまなければならないとしても、病み、そして死んで逝くのは家族でもなければ、もちろん医療者でもありません。自分の人生をどう生きて、
どう死んで逝くかは、やはり最期の最期の時まで患者さん自身の選択と意志に委ねられるべきではないかと思います。
 A命のモノ化
 次に命のモノ化ということがあるかと思います。これはなにも末期医療だけのことではありません。現代社会においては、命がモノとして見られ、(まにあう、まにあわない)という合理主義の考え方から、命の尊厳性よりも医療技術の進歩が優先きれる傾向があります。医療現場では、「死にかけている人はもうまにあわないから、まにあう人に購器の提供を…‥・」という声すら聞こえて来るような気がします。
 人間をまにあう、まにあわないというものさしで見ると、とんでもないことになってしまいます。まにあわない老人は、障害者は、末期がんの患者さんは……。それはもう、考えただけでも恐ろしくなって来ます。まにあう、まにあわないよりも、その存在自体がもっと大きな価値を持っていることを忘れてはならないと思います。
 B死は敗北か
 次に、医療者の間に「死は敗北である」として、これを遠ざけようとする態度があるかと思います。これは、医療者だけではなく、日本人にみられる一般的な態度だとは思いますが、病院に4号室を置かなかったり、特に医療者の間に強くみられるのではないかと思います。お医者さんにとって最大の仕事は、病気を治し、人間の生存を脅かすものを取り除くことにあるとは思いますが、死を迎えようとしている人に対して医学的に苦痛を取り除き、不安を慰め、安らかな自然な死を保障することも、お医者さんにとっての大事な仕事であると思います。人間にとって死は敗北ではなく、むしろ人生の完成であるという考え方を持つ必要があるのではないかと思いま
す。
 C病院を死に逝く埠にふさわしく
 最期に、現在の病院は死に逝く場所としてふさわしくないと思います。病院は本来病気を治して社会復帰させることが目的であり、死に逝く場所ではありませんでした。もちろん、以前も病院で亡くなる人さ‡いましたが、その数は少なく、多くの人は自宅で家族に見守られながら亡くなりました。しかし、現在は大半の人が病院で亡くなっています。特にがん患者の場合ですと、90%以上が病院で亡くなっています。
 ここ数十年の間に、病院は病気を治して社会復帰していく場であると同時に、死に逝く場にもなって来ているわけです。ところが、システムそのものは以前と変わりありませんから、当然死に逝く場としてふさわしくない点が出て来ても決して不思議ではないと思います。在宅での死が一番望ましいのかも知れませんが、核家族の間遭をはじめとして、難しい問題が山積しています。やはり、時代の変化に合わせて、死に逝く場としてふさわしい病院のあり方が望まれているのではないかと思います。それは、一部の老人病院と呼ばれている姥捨て山のような病院ではなく、例えば私たちが求めているホスピスケアを行う病院が必要な時代になって来ているのではないでしょうか。

4.私の希望
 以上、現在の末期医療の現場で問題になっていると思われる点と、その根底にある原因をさぐってみましたが、最後に私の希望を述べて終わりにしたいと思います。
 @いのちをもった人間として
 お医者さんはよく、「私の患者」という言い方をされますが、患者さんがお医者さんの所有物でないことは勿論ですが、患者さんは「病む人」である前に、「いのち」を持った人間であるということです。
 仏教では「いのち」は仏から与えられたものであるという見方をします。仏を大字宙と言い換えてもいいのですが、生きとし生けるものはすべて仏の世界から生まれ来たり、そして、そこへ遣り到る。
 例えば、大きな川の流れがあって、その川の水をコップに汲んだとします。コップの中の水がわれわれ一人一人の命です。自分の命だと思っていますが、決してそうではない。もともとは大きな川の流れの一部、仏の「いのち」の一部なのです。そして、コップの水を川に空ければ、また大きな流れとなって流れていく。人間が死ぬということは、その大きな流れに遭っていく、仏の世界に遭っていくということです。
 ですから、お医者さんと患者さんは立場こそ違え、同じ仏の「いのち」を生きているのです。勿論、この私も同じ「いのち」を生きています。今、一番大事な視点は、どんな立場であれ、どんな状況であれ、すべての人は同じ「いのち」を生きている者だという視点ではないかと思います。
 Aマザー・テレサと「死を待つ人の家」
 昨年の11月にインドでマザー・テレサに会ってまいりました。「死を待つ人の家」では、世間から見捨てられ、身も心もズタズタになって路上に倒れ伏した、瀕死の人々が毎日のように運び込まれて来ます。マザーはその一人一人に清潔な衣服と温かいスープを与え、やさしい言葉をかけながら、臨終を見守ります。
 マザーはあるとき町でゆき倒れのおばあさんに会いました。その体はネズミとアリにかじられ、うじがわいていました。マザーが介抱していたら、彼女は一瞬意識を回復し、ただひとこと、「あ‥・り‥・がとう」と言って笑顔で息を引き取ったそうです。その時、マザーは主を迎え、主の体に触れたと言います。これが、「死を待つ人の家」のスタートとなり、マザーは毎日、貧しい人々の中に神を見出し、その人々に手をさしのべているのです。貧しい人の中に「神」を見る。すべての人々の中に仏の「いのち」を見出す。宗教の違いこそあれ、視点は同じだと思います。偉大なマザーだから出来るのだと言う人もいるかも知れませんが、その視点を持つことはわれわれにも出来るはずです。
 Bいのちを守るシステムを
 釈尊の教えを簡単に言えば、死をタプー祝したり、忌み嫌ったりせず、老・病・死をしっかりみつめることによって、その命の尊さにめざめ、与えられた命を完全燃焼するということです。ひとつひとつの「いのち」を大切にして、最期までその人らしい人生を送れるよう、医療者・家族・ボランティア・宗教家などが、同じ「いのち」を生きる者として患者きんを応援していけるシステムや社会が実現出来ればと考えています。
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