−<特集>患者の権利について考える
末期患者、付添い家族体験記
         元日本福祉大学教授 小 川 政 亮
 私の妻・美代子は1994年3月13日早朝、かねて入院中の杏林大学附属病院(東京都三鷹市)で、膵臓がんに起因する肝不全のため死去しました。彼女のおよその活動歴一金沢でのそれを含めて−、膵臓がんと診断されてからの告知問題を含めての入院、再入院そして死亡に至る経過と彼女への私の哀惜・追悼のことばのおおよそは、月刊小誌『婦人通信』(日本婦人切体連合会刊行)1994年9月号所収の拙稿・小文「妻のこと」で見ていただくこととして、ここでは、前記小文では紙数の関係で省略した医療・看護等の問題について、患者・家族の立場から感じたままを、なるべく率直に−といっても、またもや、ここでも紙数の関係で、かつ簡略に記させていただくこととします。
 先ず一番私が精神的に思い悩んだのは、医師の注意に反してでも最初から思い切って、本人に告知すべきではなかったのかということでした。心の動き・ゆれは、前記小文からも察していただけるかと思います。ショックを与えては、というおそれから、あいまいな形になったのは、本人のことを心配していたようでありながら、本当は彼女のカを信頼していなかったのではないかと心から後悔しているところです。
 一足とびに1994年2月5日退院の夜に移りますが、本人切願の自宅に帰れたと思ったのも束の間、忽ち、その夜から急激に悪化して意識混濁で目も見えなくなり、殆んど耳も聞こえなくなる−で、方向感覚も失われパニック状況に陥ると共に烈しい痛みを訴えることになってしまいました。それで翌日、日曜日だったのですが、香林大学病院に電話、たまたま昨日までかかっていたと同じ外科所属の若い医師が当直医だったのですが、こちらは本人が激痛を訴え錯乱状態でもあるのだから、モルヒネを家族にわたしてくれないかと事情をよく説明して頼んだのですが、彼は、モルヒネは本人が来ないと絶対に渡せない、法律違反と頑強に云い張る一方でした。4人部屋入院前、まだ外来だった頃やはり本人の具合が悪くて私が代りに行った時は簡単にモルヒネを出してくれたのに、一たん退院したとなると、昨日まで在院していた患者でも途端に嫁が切れたとばかりに実に冷淡極まりない態度で、代わりの薬があるからということで息子が取りに行ったのですが、これが全然利かなかったのです。この時の同病院の対応ぐらい、いまだに腹を据えかねたことはありません。
 ですから日曜日も痛い、痛いですごし、錯乱も一層進行するという状態でした。カルテを見れば、すぐ、それまでの状態が判る筈の患者に、法律をたてに拒否することで、一層、状態を悪化させるということの方がむしろ医師の義務に違反するのではないか。むしろモルヒネを出すことの方が緊急避難としても許されるのではないかと考えたいところです。
 ともかく、そんな訳で、どうにも家族としても我慢ができなくなって7日、月曜日の早朝5時、電話した上で息子の運転する車で同病院救急外来にともかくも、今は痛いと唸る気力さえも失せて昏睡状態のままの彼女をかつぎこみました。最初に受けつけてくれたのは内科の当直医で、今、ここで緊急の手当はするけれど、それがすんだら一たん帰宅して外来診療開始時間にまた来て受静してくれと、これまた余りにも官僚的な冷酷な言い方でした。しかし、結局、状況からして帰宅させる訳に行かないと思ったのか、た−またま外科の医師が他の手術を終えて来合わせたので引き渡して、その外科医がすぐ個室を用意してくれて入院できた次第でした。
 病名は、その外科医は説明してくれず、たまたま来合わせた別の外科医が、これは要するに膵臓痛からくる肝性高アンモニア血痘による脳障害、肝性昏睡というものと思うと説明してくれました。後で出勤して来た主治医にその旨話したところで、多分そうだと思うと云い、後刻、皆で検討して矢張りそういうことになったと伝えに来るという状況でした。
 彼女がなくなった月の翌4月初め、彼女の納骨に金沢に行った機会に、民医連の城北病院、名誉院長蕗昭三氏との話の中でそのことにふれたところ、大体、痛から来る病気、とくに膵臓痛は最後は肝臓の方に来て、そうなるとアンモニアが脳まで及んで昏睡状態におちいることは医師の常識で医学生でも知っている筈で、そう云うことは最初に退院させる時に家族に云うべきことだと、氏は云われたように私は聞きました。そういう次第で、勿論、医学生ならぬ私たち家族には其のような知識が全然ありませんから、患者同様パニック状態におちいり、どうして良いか判らず本当に往生したものです。大体こうなることがある程度予想できそうなのに退院させたことが、そもそも間違っていたのではないかとも思われるほどです。そういう訳で、病状など無視して、在宅介護や在宅医療優先などというのは、全くとんでもない話です。
 まだ個室に入る前、4人部屋の時でしたが、「私のは痛みをとる治療だけね」と大変寂しそうに諦めたように云うのが、とても痛ましい気がしたものです。がんの痛みにはモルヒネが効果があることは周知のところで、MSコンチンが常用されているようですが、吐き気を伴うという副作用があり、妻の入った大学病院では、吐き気があるなら飲まなくても良いといって座薬に変えてくれたのです。しかし書物によると、副作用の吐き気には別に対処する方法があるから、MSコンテンそのものは毎日定期的に常用した方が良いともあって、果たして病院の対応が良かったのかも大変気になるところでした。結局、その都度、痛いと云い出してから、慌てて付添いの私たちがナースコールをして、看護婦さんが飛んできて座薬を入れてくれるのですが、すぐには効かず、謝分か1時間ぐらいして痛みがやっとおさまって本人も眠れるようになるということで、その間の患者や私たちの不安も相当のものでした。こういうモルヒネの使い方なんかも、もっと考えてほしいと思ったものです。
 順不同ですが、肝性昏睡で意識が錯乱し、幻想にとらわれたり錯覚におちいったりしているような患者の言動に、どう対応したら良いのか、ということも随分考えさせられたものです。入院してから、本人は帰りたいとよく云っていましたが、個室入院して、たまたま婦長さんが来た時に、本人が、また、そう云ったところ、婦長さんは「顔色が良くなりましたね、そのうち帰れますよ」と云って引き上げて行ったのです。その後で、妻は「婦長さんが『顔色が良くなったし、そのうち帰
れる』と云ったのだから、私は一人でも帰る」と云い出して、ペットから起き上がり、点滴の管がついていたままでペットから降りようとするので、付添っていた私としては一生懸命説得につとめるのですが、なかなか判ろうとせず、そのうち泣き出したりする始末で、もともと彼女は、とても冷静で理性的で、それまで絶対に、そんな状況を呈することのなかった人だけに、むしろ、こっちが泣きたい位の気持ちになったものです。こういう錯乱状態にあるような患者に対する対応の仕方なども医師や看護婦としては付添い家族に適時適切に教育・指導してもらえるとありがたいものです。
 これも、その婦長さんだったと思いますが、妻の枕元で、患者の病状はもう相当深刻だという趣旨のことを割と大きな声で云ったことがあって、妻自身はもう殆んど何も応答しなくなった段階でしたから、多分聞こえないと思われたのでしょうけれど、実際は4つの孫娘が、「おばあちゃん」などと呼びかけると「はい」と返事したりしたのですから、決して聞こえていない筈はないが、返事するのが億劫のためふだんは殆んど黙っていたのだろうと思うのです。あるいは声の高さで聞こえ易いのと聞こえにくいのとがあるのかも知れませんが、どちらにしても聴覚は最後まで残っているということなので、患者に渡する場合、そんなことも考えてほしいものだと思いました。
 人間の尊厳ということに関連してですが、患者の意識が混濁してきて、点滴管をつけたまま無意誠にペットからおりようとしたりする頃でしたが、看護婦さんが二人、錐をもって入って来て、「悪いけど、安全のため、しばらせてほしい」というので、たまたま私が付添っていたものですから、「とんでもない、そんなひどいことはやめてくれ」と断わったことがあります。その時は、よく見ると彼女は著そうにしていましたので、書くて気持ちが悪いのだろうからと頼んで清拭してもらったところ、気持良さそうに、乾いた寝間着で妻は静かに横になってくれたことがありました。簡単に、「しばれば良い」という管理的発想をするというのも、基準看護といっても実際は重症末期の患者に常時誰かが責任もって看ていられる訳には到底いかないという、人手不足からくる看護労働のきびしさによるものでしょうが、根本は、人権感覚の問題ではないでしょうか。云いかえれば、患者の尊厳を守るため、ということを基本としての絶対的即時、看護婦の大量増員が必要なのだと痛感したものです。
 人間の尊厳の根本には人間の生命があるのは当然ですが、これも私が付添っている夜間、急に妻が痛い、痛いと云い出し、40度近い熟もあるという状況に慄ててナースコールを何回やっても、「今、行きます」という返事だけで、来てくれず、持ち切れなくて、ドアをあけてナースセンターの方を見ると、二人の看護婦さんが包交車というのですが、いろんな治療材料等をのせたワゴン車を押して他の病室にすっとんで行くところでした。暫くして、やっと来てくれたので開くと、もう深夜でしたが、43ペットあるこの病棟で夜間は私たち二人だけですと云うことでした。夜ほど患者の病状が悪化することが多いと思われるのに、それが却って手うすになっていいものでしょうか、本来、少くも患者4人に看護婦1人の割合が基準看護病院というなら、三交替制を前提にする以上、日勤、准夜、夜勤各回とも最低患者4人に看護婦1人の朝が維持できるだけの看護婦の実人員一一病棟24床とすれば、少くも6人、むしろ夜間はそれ以上一が確保されていなければならず、それを保障するだけの静療報酬制度でなければならない等だということ、そうでないと看護婦労働権も患者の生命権も守られない、ということを痛感しました。その意味から云っても従来の基準看護制度自体が既に人権侵害の達意・違法なものだと思ったものです。病棟100床当たり看護婦数がフランス69.1人(1982年)、スウェーデン61.9人(1985年)に対し、日本は僅か18.3人(1986年)(数字は 『厚生の指標』1990年3月号による)にすぎないというのも、日本の医療政策が世界的に見ても、いかに人権無視、人間の尊厳無視であるかを示しているものと云えます。
 実は、その後、もう4歳の孫娘が呼んでも応答をしなくなるような状況になって来て、一見、植物人間的な状態に近づいて来て、そうなると、錯乱状態も見せなくなって、ただ黙って、息苦しそうにハアハアといい、時にアーアとため息をついているように聞こえる一一今、考えてみると、頭の中では思いが千々に乱れ、ため息となって出たのか、精神活動は停止していなかったのではないか、とこれまた、今わの時までもっと話しかけをたえず続けるようにつとめるべきだったのかとも思うのですが一状態でしたが、それでも、その時に痛感したのは、まさに、今までの人間
としての生涯を凝縮したその生命体がなお必死になって生きようとしている、そのこと自体がまさに尊敬・畏敬に催する存在なのだ、人間の尊厳を示すものではないかということなのです。スパゲッティ症候群などといわれる状態になってまで生きているのは人間の尊厳に反するなどという人もいるようですが、たとえ点満、ナースセンターへのモニター装置、酸素吸入、導尿管などがついてでも、とにかく、生きようと生命体自体が頑張っていること自体が尊厳の名に偉いするものであり、その生きようとするカが燃えつきて死に至る、少なくとも、その時まで人間として扱ってもらう権利があり、人間らしく最後のときまで生きられるよう、生きようとするカを助けるという意味での医療一昔痛を和らげる医療は勿論のこと、その他、その折々に必要な治療、看護をして欲しいし、そのための研究・学習・訓練を医療従事者としては、つんでもらいたいものだと痛感したものです。(なお、いわゆる蘇生術など不自然な延命措置は、とってほしくないのは当然です。〉
 たとえば口腔衛生のことですが、もう最後に近い頃、室内の乾燥のせいもあってか、妻の口の中が馳分荒れて、唇の皮がむけたり、痍が固まってくっついているのに、長男の妻で東北地方の県立病院のベテラン看護婦をやっているのが休みをとって来てくれて気がついて、ぬらしたガーゼでたえず口をしめらせるとか、汚れをとったり、箸の先にガーゼをまきつけて口の中を拭いてくれたり、リップ・クリームをぬったり、ケナログ(口内炎の薬)を塗ってくれたりしたのですが、大学病院の看護婦でそんなことをやってくれたのは一人もいませんでした。もう最後に近い頃に見舞いに来た妻の妹で眼科の医師ですが、彼女も、患者の口内の荒れに気づいて、舌苔がひどいけど人工唾液のスプレーはないかと、来合わせた看護婦に質問して、彼女が急いでナースセンターからサリベートという人工唾液スプレーをもって来て妻の口内に噴霧してくれて、やっと口内に潤いがでてきてたということもあり、こういったことも第三者から云われるまではやらない訳です。体温や血圧の測定、点滴交換、清拭、体位交換と、きまった仕事だけでも忙しいことは判りますが、本当に、患者のためのナースだったら、患者の状態にたえず注意して、適時・適切な処置をするということが大事ではないのか、と思った次第です。
 順不同ですが、医師・看護婦は勿論、検査技師なども含めて医療職員ひとりひとりが、一人一人の患者の人権を守るという姿勢で仕事をして欲しいということも痛感したところです。そう思ったのは、妻はもう歩行もままならなくなって、レントゲン撮影も病床で受けることになったのですが、そうすると付添いの私などは勿論、たまたま来重していた看護婦までも室外に追い出され、レントゲン技師が「ハイ息を止めて」などと云うのですが、患者はもう理解カ・判断力が落ちている状態ですので、動いたり、呼吸をしたりする、とくに苦しいのでハアハアいきをする。そうすると、技師が、つい、大きな声で「動かないで」、「じっとして」など怒鳴るのです。そうすると、ただでさえパニック状態におちいって、非常にセンシティヴになっている患者ですから、びくついて一層恐慄状態におちいってしまう訳です。何も末期患者に限らず、検査のときに介助をする看護婦が必要な患者は少なくない筈なので、防護服をつけた看護婦の同室を求める必要があるのは勿論として、レントゲン技師なども患者一人一人の病状を理解し、患者の気持を大切にして対応するという心がまえが必要だと痛感したのです。
 医師について云うと、妻の入院したところが大学病院ということもあって、教授回診などと云うと若い医師?が多数ついてくるのですが、狭い個室に入り切れないので入口のへんにかたまって仲間同士で雑談したり、ふざけたりして、失敬な、と怒鳴りつけたくなるど不愉快でした。また若い医師が点滴の側管注射をやるため病室に入って来るのですが、殆んどが、いきなりだまって入って来て、無言で側管注射をして、「お大事に」とか「どうですか」の声もかけずに、だまって出て行く。これも患者、付添家族に対して全く失礼な訳です。
 そういう状態ですから、側管注射にきても、何のため、どういう内容のものを、どれ程注射したのかを教えてくれた医師は一人もいませんでした。インフォームド・コンセントということを良く云いますが、点滴も治療の一環である以上、今、どういう内容のものを、何のため点滴しているのかを説明する義務も医師にはある筈です。
 個室に緊急入院してからですが、早朝6時頃から病院のアナウンスが始まり、終日、いろんなアナウンスがあって、一般病棟にいると、どうしても、そうなる訳ですが、やはり末期の患者には向かず、もっと静安な環境が欲しいと思いました。さりとて、いまわのきわまで必要・十分な医療が適時・適切に行われるべきことを考えると、独立したホスピスというのも患者としても、当然、家族としても、まことに不安なもので、総合的な一般病院の中でホスピス的病棟を考えるなどの工夫がなされて然るべきではないかと考えたことでした。
 また、妻のような末期的患者の場合、家族が付添うことがどうしても必要なのに、そして「入院の心得」にも「必要な場合」家族に限って付添いを求められることがあると記されてあるに拘わらず、「基準看護病院」の建前からか、付き添い家族の、とくに夜間、患者のよこで付添っていられるための配慮が全くと云っていいほどなされておらず、出入りの業者から貸し布団を借りて、廊下のすみにおいてある折りたたみ式の粗末なベッドを夜になると病室へ運びこんでねるのですが、一寸動いてもギシギシ音を出すしろもので、患者の目をさまさせないようにと、ねがえりも
打てない、身動きも出来ないということで、却って疲れるといった代物でした。付き添いが必要と病院側が考える以上、この点の考慮もしてほしいものです。
 もう半ば意識混濁した状態に陥った患者にすら、その頭を悩ませた間濱に医師や看護婦への謝礼を幾ら払ったら良いかといったことがあったことも、人権としての社会保障の観点から云って見すごすことはできないと思います。そんなことに頭を煩わせることなく誰もが安らかに死の時を迎えられるような入院であり、ターミナル・ケアであってほしいものです。
 患者死亡によって病院との医療関係は終了ということでしょうが、付添って苦労を共にしてきた家族への弔慰の気持ちをあらわし、かつそれまでの患者・家族への対応の仕方が良かったのかどうかを反省し、今後への改善の資料としていくためにも、死後の対応の仕方も重要な問題ではないかと思うのです。そういう意味でのアフターケアまでがあって、始めて末期患者へのターミナル・ケアを含めての本来の医療といえるのではないかとも感じたのです。残念ながら杏林大学病院の場合は、当直医が臨終に立ち会っていた他に二人の主治医のうちの若い医師の方が病室へそそくさと一片の弔辞をのべにきただけでした。
 たまたま、最後に近い頃、病院内の書店で求めた、牧師でもあり聖隷ホスピス名誉院長でもある原義雄医師の『ホスピスケア』によると、聖隷ホスピスでは患者がなくなってから後もかなり定期的に病院が患者の遺族たちとの集まりを持ったり、遺族を訪問して話をいろいろ聞くとあって、そんなこともやるのかと思っていたのですが、勿論、杏林では、そんなことも全然ありませんでした。
 それにしても、家族が末期的ながんだなどと宣告された時、どこの病院が一番親身に、適切な医療を一勿論、看護を含めて−やってくれるのか、といったことが、私たちには全く判らないのです。医師同士では、どうしても言葉をにごしてしまうという感じです。妻がなくなって4か月ぐらいたった頃、日本医労連本部の活動家の看護婦さんから、私たちに相談してくれたら良かったのに、と云われたことがありました。医療職場に働らく仲間の組織の中に、そういう意味での良い情報センターのようなところがあって、親身に、率直に相談にのってくれる、ということも今後、工夫されても良いのではないでしょうか。一妻の死が無駄にならないようにと願いつつ−1994年12月29日一ヘンリク・ミコワイ・ グレッキ『悲歌のシンフォニー(交響曲第3番)』をききながら−
日本婦人団体連合会
       『婦人温情』1994年9月号より転載

 妻の こ と
       小 川 政 亮

 私の妻、美代子は今年の3月13日早朝、かねて入院中の東京都三鷹市在杏林大学病院で、膵臓がんに起因する肝不全のため死去しました。享年72でした。
 御臨終と心電図みて告ぐ若き医師
 妻の頬と手まだあたたかし
 春浅く冷たき朝の病室に
 眠るが如くわが妻の逝く
1921年12月、東京生まれの彼女は、日本女子大学枚家政学部第3類を1941年12月繰り上げ卒業、中央社会事業協会研究生を経て、43、44年と長崎市在の九州保健婦養成所に勤め、戦後46年秋から約1年間、今の日本社会事業大学の前身、日本社会事業学校に勤務。この間、彼女から誘われて同校に就職した私と47年の夏に結婚しました。
1958年から10年間、彼女は、地域の小学校PTAの教員や父母の有志と共に、「石神井西民主教育を守る会」を組織し、月例学習会をもち、活動しました。毎月刊行されたガリ版刷りの『民教だより』は97号に達しています。1970年度に彼女は私たちの3人の子どもの母校、石神井西中学校PTA副会長に選ばれ、学級中心、PもTも対等平等、Tも会費を払う、Pについては世帯単位をやめ個人単位に、PTAを民主化し、会長権限を制限して、学校への寄付をやめ、学年委員会に生活・学習・広報の3部をおくなど、PTA規約改正を会員の意見をききながら進め、71年度にはPTA会長に選ばれていますが、「民教」の10年間で育てられた親と教師の相互の信頼関係が、PTAで活動すろに当たって大きなカとなったと彼女は述懐していました。規約改正の案文づくりには、私も意見を求められたものでした。
 その後、私は金沢大学法学部教授として1980年から85年3月まで、彼女と金沢で生活しました。この時期、彼女は地域の「平和を守る女たちの会」で「非核自治体宣言」について報告したり、梶井幸代さん主宰の北陸婦人問題研究所の読書会で「福田英子」について詳細なメモをつくって報告したり、民医連の城北病院で病院ボランティアとして病院文庫づくりで活動したり、などと、生涯の中でも一番活き活きとしていたようです。
 東京に戻ってからは、自宅近くの区民館の中国語教室で熱心に中国語を学習したり、体操サークルに加入したりしていました。
 その彼女が背中の痛みを訴えたのは昨年の春でした。ベッドの空くのを待って同年5月半ばから6月初めまで、近くの開業医、岡田医師の紹介で杏林大学病院に入院。検査を重ねて退院のさい主治医は、彼女には膵炎で手術するほどではなく在宅で岡田医師から投薬をうけて療養すればよいと言い、私たちは、ほっとしたものです。しかし同主治医は別に私を呼んで、これは本人に絶対内緒と念を押した上で、実は彼女は膵臓がん末期で手術不能、余命2〜3カ月だから在宅で最期を迎えた方がよい、ただ黄痘が出てきたらバイパス手術も考えられるが、膵炎も膵臓がんも症状は似ているから本人には膵炎で通すこと、と言うのでした。それを聞いて私は一瞬、眼の前が真っ暗になった思いでした。
 こうして在宅療養生活に入ったのですが、彼女は時に好調のようでありながら悪化は進み、7月に入ると疲れ、痛み、不眠などを訴えることが多くなり、薄氷をふむ思いの毎日でした。思い余って7月中旬、木下安子さん(白梅短大教授)に相談。同氏の助言にもとづいて岡田医師を訪ね、美代子への告知について検討してほしいことなどを依頼しました。7月29日、岡田医院を訪れた私たち夫婦に同医師は、膵臓手術はうまくいきそうにないので見合わせたが、今のところまだ元気だから基本的には現在の投薬治療でよい、痛みについては対処する薬があるから心配ない、と説明してくれたのですが、美代子の表情は深刻でした。
11月19日には往診をうけるほどに病状が進みましたが、そのさい、岡田医師から「実は膵頭腫瘍で、モルヒネ投与も場合により考えられる」と本人に直凍説明がありました。覚悟はしていたようですが、やはり本人にはショックだったようでした。12月30日、この日は彼女の満了2歳の叢生日でしたが、おそれていた青痘症状がはっきり出てきました。何とか誕生日を迎えてくれたという思いと、これ以上悪化しないでという願いとの複雑な思いでした。1月2日、体調の良い昼頃、娘と彼女とわたしの3人で近くの善福寺公園まで、ゆっくりと散歩をしたのが彼女の徒歩外出の最後となりました。
 冬休み明けを待って今年の1月10日、杏林大学病院受診、即日入院の南向き4入部屋、差額ベッド料1日3000円でした。1日おいて経皮経管胆道ドレナージ法という処置が行われ黄痘は消えたのですが、本人は吐き気をしばしば訴えていました。しかし同月末、主治医は手術も積極的治療も困難だからと退院をすすめ、2月5日に退院しましたが、忽ち、その夜から急激に悪化し、意識障害を起こし、7日早朝、昏睡状態のまま同病院に緊急入院。個室で差額ベッド料は12000円でした。病名は「肝性高アンモニア血症による脳障害一肝性昏睡」ということでした。この日から私、娘、次男夫婦、そして福島で看護婦をしている長男の妻、それに時々、長男や長男夫婦の一番上の高枕3年になる娘、つまり私たちの一番年長の孫娘も加わって、ローテーションを組んでの病室泊まりこみでの付添介護が始まりました。妻は一時小康状態になったようでしたが、急速に悪化が進行し、殆ど呼びかけにも応えなくなりました。ただ私たちと同じ屋根の下で暮らす次男夫婦の一人娘、夏葉(4歳)が「おばあちゃん」と声をかけると「ハイ」と返事したので、「なっちゃんはおばあちゃんの特効薬」と私たちを感激させたこともありましたが、それも続かず、冒頭のように死を迎えたのでした。
 入院中は、医療制度、医療教育体制、医療保障などの問題性を散々考えさせられた日々でもありましたが、紙数の関係で省略します。
 彼女がなくなった翌日、自宅で無宗教で心のこもったお別れ会的な葬儀を行いました。そのとき、会葬者に彼女の略歴とともにお配りした私の追悼の青葉の一部を引用して終わりとします。
 「故人は、夫の私がこのようなご挨拶の中で言うのは、いささかきざに聞こえるかもしれませんが、本当に文字通りの最高の伴侶でした。聡明で、よく見、よく考え、よく判断し、謙虚で、かつ社会間焉に関心が強く、地域、学枚、そしてこの国が民主・平和・人権の憲法にふさわしいものとなるように、いつも念じていました。読書が何より好きで、向学心も旺盛でした。そしてまた、彼女は褒め上手、聞き上手で、必要とあらば適切な意見を述べる、いわば生まれながらのケースワーカーでした。とりわけて、私が今日の日本社金事業大学の前身、日本社会事業学枚に勤務
して以来、社会福祉・社会保障関係の法律の研究、教育にともかくも関わってこられたのも、このような彼女の助言と励ましがあったからだといつも感謝してきたところです。彼女はもちろん子どもたちにとっても良き母であり、孫たちにとっても良きおばあちゃんだったと思っています。彼女は決して社交的ではありませんでしたが、すぐれた先輩、友人、知己、隣人の皆様に恵まれていました。
 このような彼女に先立たれるなど、私としては全く考えたこともないことでした。不幸にも病におかされて、ついに今日に至ったことは、全くかえすがえすも残念至極としか言いようがありません。後に残った私たちとしては、故人の人がら、生きざまに学び、残した志を受け継いで、それぞれに努力をしていきたいと念じています」
 今、彼女は金沢市野田山の小川家基地に眠っています。私も死後はそこです。
     
(元日本福祉大学教授・74歳)
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