−<特集>介護保障と介護保険
介護づけの週末を乗り切って
               老人ホーム利用家族
◎金沢と能登を往復し父を介護
 先日、ある新聞にこんな句が読まれていました。
 “だんだんに身軽なえが増えていく”
 この句をよんだ方は、病身のご主人をお世話しており、自分の夫を心にして暮らしていくと言葉を添えてありました。私の周りにも介護者を抱えた方々が沢山おいでます。わが家の例はその一つにすぎないと思いますが‥…。
 私の父は鹿島郡能登島町で生活しており、私たちは金沢に住み、それぞれに生活をしていました。父の世話をするようになって今年で11年たちました。1985年の6月に母がクモ膜下出血で倒れ、10日あまりの介護でしたが亡くなりました。母は69歳、父は79歳でした。当初、家族が心配しても、「自分で生活ができる。子供たちに迷惑はかけない」と言い切り、まだまだ気力がありました。
 そして、父の独居生活が始まります。私たちは、この日から金沢と能登島の往復が始まります。毎週土曜日、5時に仕事を終えて、6時30分頃には夫の運転する車に乗り、途中の買い物時間も入れて2時間30分かけて実家につきます。実家に着くと、掃除、洗濯、家の周りの草取り、畑仕事など、座る間もなく夢中で時間をつかいました。
 父は食事は自分で作ることができましたので、私の気をつけることは、普段不足がちな献立に工夫しました。煮物や温かい汁物、野菜などに気を使いました。魚は豊富ですし、保存食を作り、1週間が不自由しないように準備をします。帰りは日曜日の夕暮れになり、車の中でこっくりこっくりしながら金沢に帰ります。こうして2年間は何とか父も私たちも生活を続けることができました。
 しかし82歳ともなれば、気持ちがしっかりしていても日常生活で物忘れもでてきます。実家に帰ると、台所に焦げたお鍋が出してあったり、それも繰り返すようになってきました。私は初めは、小さな鍋は、買って揃えておけばいいと考えていましたけれど、父には、火に気をつけるように言っても、火の始末は心配でした。日頃、両隣や親類の方々にもお願いもしましたし、夜になると電話をかけて、安否をたずねました。
 ある夜、高い熱をだして、父の下半身が麻痺して、必死で電話をかけた所が、部落でも離れている家でした。そちらの奥さんが駆けつけて下さって、汚れた身の回りを片づけて下さいました。親類にも連絡をとり、私たちに知らせてきたのです。この時町の方々の親切をありがたく思うと同時に、このままではいけないと焦りもでてきました。
 私は仕事を続けていいのか家族と相談しましたが、経済的にも私を必要としていて別の方法で切り抜けることしかできませんでした。まだ若い私の長男が父と同居することにいたしました。こうして土曜日に実家に通い、6年が過ぎました。一人暮らしが心ぼそくなった父は、1991年9月の85歳の時、いつもの肺炎にかかり入院となりました。この入院で私たちは内心ほっとしました。いつでも見舞える金沢にきて、医者がついていてくれることが何よりでした。
 この間、わが家ではいろいろな出来事が続きます。父の長女、つまり夫の妹が末期がんで、大阪の病院から引き取らなければなりませんでした。父と同じ病院にお願いして、兄嫁である私の肩にかかりました。私の次男がこの頃病気になり、家族の中に介護の必要な老人を抱えることとなりました。思い返しても、私の人生でこれほど残酷なことはありませんでした。

◎施投、病院を転々として
1992年6月、ようやく父は元気になりました。うれしいけれど、病院をでなければなりません。この時は、私は二人の病人を抱えて困難であることをわかってくれて、すまないすまないといいながら、次に探した老健施設に納得して移ってくれました。しかし、7月、8月の2ケ月で熱を出し、元の病院へ戻ります。それも4ケ月の入院で元気になり、退院の話がまたきます。入退院の繰り返しがこの頃から始まりました。
 父の希望してたやすらぎ老人ホームにも申請したものの、全く見通しが立ちません。自分たちで市の制度などを調べましたが、ある施設ではペットの使用ではなく、布団の上げ下ろしを自分でしなければならず、無理です。父は老健施設では合わなく、呆け老人でもなく、精神病院もかわいそうです。ところが入る所もなく、そのような施設にお願い致しました。ここでは痴呆の方と一緒で、鍵のかかった病棟でした。この時、生きる希望もなくして、食欲もおち、衰弱、肺炎となり、担当医も、もうこの施設では無理と言って、元の病院に戻してくれました。この間、病気の妹は亡くなり、娘を亡くした父を哀れにも思いました。1993年11月から94年4月まで家から近い老人病院に移り、1年待った特養老人ホームの入所も5月からと連絡があり、入所できました。父の病状から、もうダメかと何回も思ったりもしましたが、元の病院に戻ると元気になる姿に驚きの連続でした。
 おかげで、やすらぎホームに入所できて、2年半になりますが、父はこれまで他の施設を変わるたびに、オムツを当てられてしまったり、呆け老人として見られたりしました。家族はそのたびに、父の性格を知っていますから、あれは呆けているのではない、父はこう考えているのだからだと話あっています。

◎人間を大切にする社会を
 この11月に91歳になり、歳相応の物忘れは当然ですし、頑固さも目立ち、施設の方々のご苦労も多いと思っています。緑内障で視力も衰え、耳も速くなり、私が大声で“おかあさんですよ,,と声をかけると、「分かっておる、声でわかる」と元気に話しています。施設では、単調になる生活を工夫して、いろいろな内容で外出の機会をつくってくれています。ある時、父は「人の顔もうっすらとしか見えないが、外に出ると気分がとてもいい」と私に話しました。また、過去には、つかれてぼやくと、「人間は、一つ歳をとるごとに一目でも長く生きていたいと思う」とも言って私を諭してくれました。
 私は赤ちゃんからお預かりする保育園で仕事をしています。このこどもたちの未来とやがてくる自分の老後、そして父の介護を重ね合わせながら考えると、人間を大切にする社会を月並みですが願わずにはおれません。
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